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全力。

中学生の頃は毎日死のうと思っていた。

外面を取り繕うのが上手かったので誰かが何かを感じてもそこから危機的な不穏を漏れさせることはなかったけれど、じゃあなぜ死ななかったかといえばただ単に「痛いことをしないと死ねない」のが子供の死だったから。

いじめられていたわけでも、仲間外れにされていたわけでもない。どちらかというといじめられている子にも普通に話しかけていたし、連んでいられる同級生もいた。部活動も楽しかったし色んな役割も任されたり率先してやったりしていた。右斜め前の席の男子や他のクラスの男子バスケ部の男子が好きだったし憧れの先輩もいた。先生の親父ギャグに突っ込んで笑ったり職員室に好きな先生を訪ねることもよくあった。

それでも自分のなにものでもない感じやなにも決定権のない毎日に光を感じることはなくて、今この時代を思い出しても薄暗い木造校舎の薄暗い側にいた自分しか思い出せない。

選択肢と決定権のない子供には痛い方法でしか死ぬことができない、だから死ななかった、多分それだけのことだった。

この頃の孤独感やままならなさは今でももっている。今は自ら死のうとは思っていないけどじゃあ今死んだらどうかといえばそれほど今に執着してもないからああここまでが私の人生だったんだな、と思うだけのような気がする。実際大事だったと思う人が死んでいっても私の日々は動いている、だから私の死もそんな風なんだろうと思う。

ただ、不思議なことに大人になってわかったのは、死を厭わないことと、毎日が充実することは両立する、死を思いながらも今日は楽しかったと思うことは両立するということ。

死にたくなったり楽しく感じたり、そういうこと全部が「全力」ってことなのかも。あの時の私もたぶんあの時の私なりの全力だった。

自分の人生を自分でハンドリング出来る大人になった今、切なくなったり孤独に苛まれたり楽しくなったりしながら、好きに暮らせるのはいいものだと思っています。



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