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『ペルセポリス』試論: 言語の転覆を通じて歴史をパフォーマンスする

あけましておめでとうございます。今年は批評をやっていきたいので、今年最初も批評で。

 『完全版ペルセポリス』、または『ペルセポリス』のなかで、著者マルジャン・サトラピはイラン人の女の子と若い女性としてイラン革命、抑圧的なイラン政権、そしてウィーンのフランス語学校での生活を経験したことを回顧する。『ペルセポリス』はグラフィック・ノベルという、説明とセリフがなかにある視覚的なコマで構成されている小説の形をとる。言い換えれば、グラフィック・ノベルは視覚的な言語と文字通りの言語を組み合わせて物語を形づくる。この視覚的な言語と文字通りの言語の共存は、『ペルセポリス』が記憶と歴史を通常の小説とは違う形で表現することを可能にしている。とくに、視覚的な言語と文字通りの言語とのあいだで矛盾が生じるとき、読み手は「オリエントを占領し、再構成し、オリエントに対して権力をもつための西洋的な態度」であるオリエンタリズムによって形成された文化的な二項対立を転覆する (Said, 3)。この現象、いやむしろこの小説のパフォーマンスを、言語と意味についてのジル・ドゥルーズの作品を用いて考えてみたい。そして、言語の転覆はサトラピの記憶とイラン共通の歴史との関係と『ペルセポリス』における歴史の表象に多大な影響を与える。
 『意味の論理学』のなかで、ドゥルーズは、動詞の働きを変化させる、原因と結果の反転といった言語の反転が名詞の固定性を奪う、と主張する。ドゥルーズは、二項対立の構造の内部で常に変化すること、生成変化することを表現するために言語を用いるものとしてルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』を例に挙げる。ドゥルーズはこう言う、「実詞や形容詞が溶けはじめるとき、休んでいて停止している名前が純粋な生成変化している動詞によって持っていかれ出来事の言語に滑り込むとき、すべてのアイデンティティは自己から、世界から、神から消滅する。」(Deleuze, 3)。アリスの名前は神によってその固定を保障されているにもかかわらず、原因/結果と能動態/受動態の反転がアリスの名前を生成変化させる。
 同じように、『ペルセポリス』は視覚的な言語と文字通りの言語の反転を通じてオリエンタリズムの二項対立を越えようとする。グラフィック・ノベルとしての『ペルセポリス』は読み手に文字を読ませ、それと同時に絵を視させ、そしてそれらをつなげさせることで意味を成させる。しかし、たまに同じコマの中の文字通りの言語と視覚的な言語が意味を成さないときがある。例えば、主人公マルジが母の髪をセットしているとき、母は「私たちの国はいつも戦争と殉教者で知られてる。だから、わたしの父は「大きな波が来るときは、頭を低くして通り過ぎるまで待て!」って言うの。」と言う。コマの下のほうにある説明にはこう書いてある、「それはすごくペルシャ的である、諦めの哲学。」(Satrapi, 94)。そして、そのコマにはマルジの母の強くパーマがかかった髪が描かれている。ここには視覚的な言語と文字通りの言語とのあいだに無意味、あるいは矛盾、がある。なぜなら、マルジの母のパーマがかかった髪は彼女の西洋への同化とそれによるイスラム政権への抵抗を表象している一方で、彼女は抑圧の際に抵抗しないというペルシャ精神を貫いている。もしこの矛盾を表面的なレベルで解釈すると、これは彼女の伝統主義と革命的なイデオロギーという相反的な態度の表象である。もちろん、これら両方を同時に持つことはなんら普通である。
 しかし、この矛盾は根本的な矛盾である。これは言語という概念そのものを転覆させる言語のパラドックスである。先のコマで、読み手はテクストの解釈と視覚的な情報の解釈を組み合わせて意味を成すことができない。だが、読み手は自らの解釈を作品に押しつけたいという欲望があるので、読み手は二つの解釈を反転させようとする。矛盾を解消するために、視覚的に得た解釈をテクストを読むときに押しつけ、テクストの解釈を視覚的な言語の認識に押しつける。
 このとき、読み手はこのコマで視覚的に得た解釈、つまりマルジの母は西洋化され、政権に対して革命的であるという解釈をテクストに適用する。したがって、読み手は耐え忍ぶというペルシャ精神が西洋の概念なのではないか、そしてその精神が政権に対抗的なのではないかと考えるだろう。その一方で、読み手はこのコマのテクストの解釈、つまり彼女は戦争とイスラム政権に対して諦めの精神を信じているという解釈を絵に投影する。読み手は、西洋人は政権に対して従順でないとすれば、抵抗的ではなく、受動的であると考える。これは西洋がオリエンタリズムを通じて構築した東と西という二項対立の考え方そのものを、視覚的な言語と文字通りの言語の転覆を通して転覆させる。東洋のステレオタイプを西洋のアイコンに写像することと、逆に西洋のステレオタイプを東洋のアイコンに投射すること、それらは言語を通じた東と西の二項対立の転覆のパフォーマンスである。
 文化の構造そのものを撹乱する言語の根本的なパラドックスは『ペルセポリス』における記憶と歴史というテーマの表現にとって重要だ。『ペルセポリス』には二つの次元がある。一つはマルジャン・サトラピの若き時代の回顧、もう一つはイランの近代史の断片である。しかし、サトラピの個人的な回顧と集合的な近代イラン史は一貫していない。なぜならば、サトラピのリベラルで、中流階級の、教養のある背景はイランの多数派のそれとは異なる。けれども『ペルセポリス』における個人的な歴史と集合的な歴史の分離は、イランを西洋化されたイランとオリエントのイランを分離したいという読み手の欲望を反映していて、それが読み手の欲望なのである。『ペルセポリス』がサトラピの記憶を集合的なイランの歴史から分離するのではない。反対に、『ペルセポリス』は言語の転覆を通じて読み手のオリエンタリズム的な欲望を非難するのである。
 例えば、マルジの叔父アヌーシュがイランに帰るときに変装した話をする場面で、イランの警察が「おい!サングラスかけた髭のお前」と叫びながらアヌーシュに銃を向けるコマがある (Satrapi, 60)。アヌーシュの変装の様子はその直前のコマに描かれている。彼はサングラスをかけた、長い髪と大きな髭のある典型的なアラブの大富豪のような格好をしていて、柄物のシャツを着ている(Satrapi, 60)。読み手はイランの警察が西洋の目線と同じように、髭とサングラスで特徴づけられたアヌーシュをステレオタイプ的に認識していると気付くだろう。西洋の読者はこのオリエントに対する東と西のステレオタイプ的な認識の類似性に驚きを隠せないだろう。だが、少なくともこのコマではとくにイラン人とは示されていない警察は、東洋への西洋の目線の象徴であると解釈することができる。西洋の集合としての警官隊は、シャー(モハンマド・レザー・パフラヴィー)がアメリカに支援されていたという事実をほのめかす。だから、サトラピはただ彼女の個人的な歴史を集合的なイランの歴史に組み込むだけでなく、ナラティヴに西洋のオリエンタリズム的欲望を入れている。『ペルセポリス』はサトラピの若年時代、近代のイラン、そして西洋のイデオロギー的な「東洋」の破壊、これらの歴史を集め編纂し、叔父のアヌーシュや両親、祖母がしたように、その編纂された歴史を世代を通じて伝えたいのだ。
 サトラピの作品は内容に富んでいて、なおかつ西洋が構築しつづけてきたオリエンタリズム的な二項対立の土台を破壊する視覚的な言語と文字通りの言語の使い方と組み合わせにも富んでいる。彼女の作品はドゥルーズ的視点を越えているのは、彼女が視覚的な言語をテクストと合わせて用いているためである。ドゥルーズは言語をエクリチュール(書かれた言語)として考えているので、視覚的な言語を言語の構造を反転させる要素として焦点を合わせていない。さらに、『ぺルセポリス』は歴史をパフォーマンスする、つまり歴史を複層的な構造と言語の転覆を通じて伝承する。複層的な構造は多文化的なダイナミクスを示しているということのみを意味しているわけではなく、読み手の、西洋の、サトラピの欲望を反映しているのだ。

参考文献
Deleuze, Gilles, The Logic of Sense, trans. by Mark Lester and Charles Stivale, The Athlone Press, 1990.
Said, Edward W., Orientalism, Penguin Books, 2003.
Satrapi, Marjane, The Complete Persepolis, Pantheon Books, 2004.

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