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新しいテーブルでひと息する日記

1月22日(水)
待ちに待ったテーブルが到着した。

みっちみちに詰まってる

購入先のレビューでは、塗装の剥げや穴が空いている等、個体差があるようだったので正直ドキドキしていた。発泡スチロールに苦労しつつ取り出した天板は目立つ傷も剥げもなくとてもキレイだ。嬉しくて思わず「ようこそ我が家へ」と声に出していた。

説明書に書かれた「組み立ては必ず二人以上でおこなってください」の文言をサラッと無視する。
成人女性一人でも労なく持ち上げられる重さだけれど、脚の取り付けには正直手こずった。
答えを先に言うと押し込んではめ込むタイプだったのだけど、ネジ廻し式と思いしばらくカラカラと回していた。
どんなに回しても固く締まる手応えが無く、よくよく見ればネジ溝がない。かと言って押し込むにはサイズがジャスト過ぎるのでは?となり、しばらく頭を悩ませていた。
テーブルを返した時、偶然一ヶ所が運良くハマらなければ、「これはこういうものなんだろうなあ」と仮置きのような状態のまま使用していたかもしれない。
そんなこんなで完成したテーブル。さっそく初めての食事を取り、今この日記を書いている。

部品Aはぐいと押し込みましょうと書いて欲しかった




以前、インテリアを変えることについて脱皮と書いた。

インテリアを一新したからといって、私自身の性格や人となりが劇的に変わることはないだろう。
これは、禊のようなものだ。あるいは脱皮。
ソファーに座る度に頭の片隅を過ぎる昔の友人の姿を。実家の四畳間に囚われている過去の自分を。
褒められた人生ではなかったかもしれないけれど、今こうして自分の力で好きなものを手にして生きているという実感を、私は部屋を一新することで手にしたいのかもしれない。

深夜に紅茶ラテを飲む日記より

テーブルひとつで何を大袈裟な、と思うかもしれない。けれど、いざこうして組み立て終わったテーブルを前にソファーに座りながら日記を書いていると、住み慣れたはずの家が違って映る。
それは物理的に新しい家具が増えたからではなく、それを使うことによって自分の動線だったり視点が変化することによるものなんだろう。
この空間を心地良く過ごせる自分でいたい。そう思った矢先、まるで私の気持ちの変化を見越すかのように長年使っていたカップの縁が欠けた。

洗い物の最中にシンクに落としたのが原因だと思う。これまでどんなに雑に扱っても平気だったのに、右利きの私がカップを手に取りちょうど口を付ける個所が欠けてしまった。

物に執着しない反面、自分に対して無頓着な一面もあるので「使えるからまあいいか」で済ませてしまうことがある。
仮にブランドものの香水を貰ったとしても香りが好みでなければあっさり手離せてしまえる。反面、日常使いに便利で手にする頻度が高く、重宝している物だった場合、多少痛んでも「使えるからいいか」で済ませてしまう。
GUのセールで買った洋服とか。愛用しているあったか靴下とか。新しく買ったところでたいした金額じゃないのに使い続けてしまう。金額云々じゃなく、そのものを自分の懐に入れたかどうかが大きいんだろう。

それで言うと先のカップはまさに私の日常で、たぶん今回のことがなければなんだかんだ使い続けていた。100均の、どこにでもある普通の、これまでの私の日常が染み込んだカップを。

今までありがとう

テーブルに合う素敵なカップを手にしなさいと言われたような気分だった。そして、それを手にする自分はどう在りたいのかと新しく想像を膨らませる。

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