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贅沢な悩み日記
1月7日(火)
メンタルクリニックに通っている。
初めて訪れたのはパニック発作を起こした10年ほど前。それから病院へ通ったり通わなかったり病院を変えたりをしつつ、今に至る。
今日は年が明けて初めての病院だった。
最近の調子を聞かれ、「いろんなことを考えている」と答えた。
「何が食べたいとか、仕事に行きたくないとか。答えが出ることじゃなく、答えがでないことをずっと考えてる」
「なんで生きてるのか、とか。どんな状態になったら自分は楽になれるのか、とか」
私は、あまり自分の気持ちを言葉にすることが上手くない。
言葉にしたところで、相手がそれをどう扱うかは私には決められない。こちらが真正面から投げたボールを適当にあしらわれたり、明後日の方向へ返されたり。
仮に相手も懸命に投げ返してくれたとしても、ボールが私にまで届かずお互いの間にポトリと落ちてしまった場合、相手とラリーが続く適切な距離を見極める必要が出てくる。
そうなると、私にとってその会話はもう「今日は天気がいいですね」と同じものになってしまう。
その昔、小学生の頃。
家の前の通学路が見事な銀杏並木で、歩道に落ちた葉をカサカサと踏みながら歩くことに触れた時、その話を聞いた当時の教師は「生きにくい性質を持っているかもしれない」というようなことを口にしていた。
あまりにも昔のことだから記憶は朧げで、もしかしたら実際は違う口ぶりだったかもしれない。
でも、今にしてみれば、あながちハズレてはないんじゃないかと思う。
先の答えを聞いた医師は私にこう言った。
「みんな、何かしらそう思いながら生きてる。ただ日々の忙しさや目の前のやることに追われて、その対応をしているうちに疑問を考える余裕もなくなってる」
ちょっと言葉のニュアンスが違うかもしれない。
でも、不思議と腑に落ちた。
なんで生きるのかをずっと考えていたから、それについて考えることが当たり前になっていた。
だから、周りの人たちも当たり前に考えていて、それを考えながらみんな上手に泳いでいるんだと思っていた。
そうか、考える必要が追いつかないくらい周りの人たちは動いているのか。
こんな正解もないようなことを考え続けている自分を、ずっと情けないと思っていた。
もしも今と違う人生を生きていたら、私は「なんで生きているんだろう」と考えた先で、その時生活の大半を占める何かを理由に「◯◯があるから」と結論付けられていただろうか。
今の人生と、この生き方しか知らないから分からないけれど、たぶんそれでも今とは違う何かについて考えているような気がする。
それなら、飽きもせずぐるぐると考え続けている私は、この考えを持ち続けているということはある意味贅沢なんだな、と。
それはどこか本を読む行為に少し似ているような気がした。