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顕性・潜性への用語変更の影響
日本遺伝学会の2017年の提案を受ける形で、2021年出版の中学校理科の教科書では遺伝分野に関して、優性から顕性、劣性から潜性へと用語変更されました。この用語変更が誤概念の形成に与える影響を調べましたので、調査結果の概要について紹介したいと思います。
1.そもそも誤概念は形成されていたのか
日本遺伝学会の提案は「理科教育における優性と劣性の用語の使用が,形質が優れているや劣っているという誤概念をもたらす」との指摘に基づいたものでした。ですが2017年当時、そのような誤概念を中学生が持っているかの調査はほとんど行われておらず、下記の研究で調査を行いました。
その結果、確かに多くの中学生は遺伝の学習後、「優性劣性は生存の有利/不利に関連する」という誤概念を有していたのですが、それ以上に「集団内の頻度が高い方が優性」、つまりよく見かけるものが優性形質という誤概念を有していることが分かりました。
「よく見かけるものが優性形質じゃないの⁉」と思われる方もいるかもしません。確かに優性形質は劣性形質に比べて子に現れやすいのですが,生まれた後、その形質が生存上有利であるか不利であるかによって、その形質を持つ個体の頻度は変化します(つまり自然選択の影響を受ける)。そのため,優性形質であってもよく見かけるとは限らず,集団中の頻度が高い形質を優性形質とする考えは誤っていることになります。
中学校理科では子どもが生まれた後の集団の遺伝子頻度の変化については扱われませんので、中学生がこの誤概念を持つのは仕方ないことかもしれません。ですが海外の調査においては大学生であっても多くが、この誤概念を保有していることが示されています(Abraham et al., 2014;Summers et al., 2018)。
話を戻しますが、先ほどの調査結果を踏まえ、顕性の「顕」はあらわになる、潜性の「潜」はひそむという意味があるため、用語変更により「優性劣性は生存の有利/不利に関連する」という誤概念の形成率は減少するものの、「集団内の頻度が高い方が優性」という誤概念の形成率は上昇してしまう可能性があると予想しました(下図参照)。
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2.用語変更の影響 調査方法
上記の予想を検証するために今回の質問紙調査を行いました。この調査を行った2021年は用語変更が反映された最初の年で、この年の中学3年生から顕性・潜性での遺伝学習が始まりました(注:優性、劣性の語も括弧書きや注で紹介されています)。そこで、前年度に優性・劣性で遺伝を学習した高校1年生と、誤概念の形成状況を比較することにしました(下図:質問紙は共通だが、用語のみは中3の学習内容に対応)。このタイミングでしかできない研究でした。
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3.調査結果① 用語変更の影響
この質問紙調査では、各形質を顕性(優性)・潜性(劣性)形質として選んだ理由を尋ねており、生存の有利/不利に関連する選択肢(例:~の方が生きていくうえで有利だから)を選んだ場合、集団内での頻度に関連する選択肢(例:~をよく見かけるから)を選んだ場合、それぞれの誤概念スコアを1点加点するという基準で、各生徒の誤概念スコアを算出しました。
その結果、誤概念スコアの比較により、用語変更によって「生存に有利な形質が顕性(優性)」という誤概念は形成されにくくなったのに対して、「よく見かけるものが顕性(優性)形質」という誤概念は形成されやすくなったことが示唆されました(下図)。予想した結果ではありましたが、はっきりとした調査結果が出たことには驚きました。
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4.調査結果② 両誤概念の関連性:生存に有利だからよく見かける
調査結果を分析していたところ、あることに気が付きました。
質問紙には「生存の有利/不利」に関する誘導文(例:トゲがあることでバラは動物に食べられにくくなります)が書かれた項目が4つ、「集団内の頻度」に関する誘導文(例:黒色の金魚は赤色の金魚より珍しいです)が書かれた項目が4つの、計8項目あったのですが、すべての項目に各形質を選んだ理由の選択として、生存の有利/不利に関連する選択肢と集団内での頻度に関連する選択肢を設けていました。すると、生存の有利/不利に関する誘導文が書かれた項目では、各形質を選んだ理由として生存の有利/不利に関連する選択肢(例:トゲありの方が生きていく上で有利だから)に加えて、集団内での頻度に関連する選択肢(例:トゲありのバラをよく見かけるから)を選ぶ傾向があったのです。つまり、生存に有利だからよく見かける、よって顕性(優性)形質という思考過程が存在することが示唆されました。
5.調査結果③ 「3:1情報」vs.「誘導文」どちらを基準に選択するか
ではよく見かけるどうか(集団内の頻度)が中学生にとって、形質の遺伝性を判断する最優先の情報なのでしょうか。
中学校理科の遺伝学習では、Aaどうしの交配により、顕性(優性)形質:潜性(劣性)形質=3:1で子が生じることを扱います。通常、メンデルが行った交配実験が紹介され、エンドウのマメの形質に関してAaどうしでは丸:しわ=3:1を学習します。皆さんも印象に残っているでしょう。
そこで、生存の有利/不利や集団内の頻度に関する誘導文に加えて、3:1情報を加える項目を作りました。この項目のポイントは、誘導文と3:1情報が矛盾するようにしたことで、これによりどちらを基に各形質の顕潜(優劣)を選ぶかを判断できると考えました(下記参照)。
例1)ある植物では、葉の「においの有無」が一組の遺伝子(例:Aとa)の組み合わせによって決まります。このにおいは、葉にカビや細菌が繁殖するのを抑えることができます。Aaの個体同士を交配すると、子にはにおいが無い葉と有る葉の形質が3:1で現れます。においの有無について「においあり」と「においなし」はどちらが顕性(優性)の形質だと思いますか。
例2)ある金魚の「体の色」は一組の遺伝子(例:Aとa)の組み合わせによって決まります。「黒色の金魚」は「赤色の金魚」より珍しいです。Aaの個体同士を交配すると、子には体の色の形質は「黒色」と「赤色」が3:1で現れます。体の色について「黒色」と「赤色」はどちらが顕性(優性)の形質だと思いますか。
その結果はクリアなものでした。3:1情報があると誘導文に引きずられずに、顕性・潜性(優性・劣性)形質を正しく選べる傾向がありました。つまり、中学生にとって「3:1」の情報が各形質の遺伝性を判断する上で最も優先される根拠になっていると言えます。もちろん、これは正しい理解となります。ですが、3:1情報がないと、形質の集団内の頻度や生存の有利/不利に基づいて遺伝性を判断しているわけなので、中学校における遺伝学習の在り方を検討していくことが必要と言えます。
ここまでの調査結果をまとめると、「多くの生徒は中学校理科における遺伝学習により,Aaどうしの交配結果(○:△=3:1)を学習し,顕性(優性)形質の頻度は3,潜性(劣性)形質の頻度は1という認識が形成され,集団内の顕性(優性)形質の頻度は潜性(劣性)形質の頻度より高いという推論をするようになる」と言えるでしょう。
6.まとめ 用語変更の是非
今回の調査結果を見ると、「生存の有利/不利」の誤概念は減少したものの「集団内の頻度」に関する誤概念が増加したことから、用語変更しない方が良かったと思われるかもしれません。ですがその判断をするのは時期尚早です。これまで中学校の教科書では、優性・劣性は生存上の有利性・不利性と関係しないという注意書きがなされており、中学校理科教員も授業中にその点を強調していたと思います。一方で「集団内の頻度」の誤概念については現状、教科書に注意書きはなされておらず、中学校理科教員もこの誤概念に配慮した指導はしていないと思います。そのため、これらの指導を行っても誤概念が形成されるのかを今後、調査する必要があります。自然選択による集団の遺伝子頻度の変化は高校生物で扱われますので、中学校理科で形成された誤概念が、その後の学習によって改善されるかについても調査する必要があります。
また、用語変更の是非については別の観点から考えることも大切です。日本遺伝学会の用語変更の提案は「ゲノムの時代」に合わせたものでした(小林、2018)。生命科学の進展は目覚ましく,個人のパーソナルゲノムが分かる時代になっており、遺伝子検査をすれば必ず劣性(潜性)遺伝子がいくつか見つかると予想されます。生存の有利/不利に関連する誤概念を有している場合、「劣性遺伝子がありました」と言われると自分には生存に不利な遺伝子があると落ち込んでしまうでしょう。一方で、「潜性遺伝子がありました」と言われても落ち込む方は少ないでしょう。この意味では、今回の用語変更により、中学校理科学習における生存の有利/不利に関連する誤概念の形成率は減少したわけなので、将来誤った解釈によって苦しむ人を減らしたと言えるかもしれません。
今後は、21世紀が「ゲノム時代」であることを踏まえ、市民が自分のもつ遺伝子変異の意味を正確に理解できることを目指し、顕性・潜性時代の理科教育のあり方を探っていくことが重要と考えています。