古木の番
甘い香の匂いが汗で消え、合わない沓で踵から血が滲む頃、マホは、山の祠に辿り着いた。刺繍が入って重たい花嫁装束から手を放し、深く息を吸う。紅樹独特の胸がすく香りが、病んだ肺に満ちる。おまえには、この匂いが薬になると、姉はよく言っていたものだ。
「大丈夫だよ、私は幸せだから。あなたも体を治して、どうか幸せに」
山の加護と引き換えに、ヌシに差し出す「つがい」が姉に決まった。里の衆が報せと「誠意」を携えやって来た時、姉はそう笑った。赤い針のような葉が覆う紅樹はこの山にしかなく、質の良い樹脂で里は食いつないでいた。
マホは知っている。姉には想い人がいる。針仕事の隙間に窓の外から「赤の山」を見ながら息をつく。無口で頑固な姉の横顔が、その時だけは切なそうな愛情に満ちているのを知っている。
姉の婚礼衣装を盗み、山の怪から逃れながらここまで来たのは、全てが許せなかったから。
「花嫁が、古木の神に拝謁いたします」
精一杯、姉を真似た声をあげると、祠の戸口から現れたのは、簡素な衣に玉牌を佩いた枯れ木だった。落ちくぼんだウロのような眼窩。紅樹の小さな花がまばらに咲いた頭は伸び放題の枝で、肌も手足も古木のよう。マホは思わず目を閉じた。
「アコ」
姉の名を呼ぶ柔らかな声がすぐそばで聞こえ、枝のような指が、マホの頬に触れる。身を竦めたマホに投げかけられたのは、戸惑いの声だった。
「……きみは、弟か」
なぜ知っている? 薄く目を開くと、思慮深くマホを見る若葉のような緑の瞳。
「もしや……アコは、きみに婚礼について何も言わなかった?」
呆然と頷くや否や「あの子は」と呟いた古木は、足の根で滑るように山を下り始める。
「どこへ」
「アコを助けに。里の者が気づけば、その身が危ない」
その決然とした声を聞き、ようやくマホは、己の間違いに気がついた。しかし続く言葉で、その後悔も吹き飛ぶ。
「あの子の胎には私の子がいる」
【つづく】