青島Capriccio①悪食ハンス
アルプにも好みの味は色々あるが、ハンスは特に、困り果てた若い女だけが持つ、鋭い苦味を愛していた。
その悪食が災いし、悪い卦に当たることあまた。今回もそうらしかった。
「僕は帰るぞ。好きに始末をつけ給え」
幼い美貌に似合う冷たい声で言い残し、ハンスより2世紀(ふたまわり)年上の朋友、ドミニクは窓から逃げた。この朋友は、ハンスを必ず一度突き放す。ここが膠州湾租借地と呼ばれる頃から、ずっとこうだ。
相棒が出て行った窓の外は、眼下に台東夜市の喧噪。ブドウの房のような観光客と地元の人間が交差し、有人と無人の屋台、古箏と笛の楽しげな曲を流しながら巡回するドローン。ドミニクの姿はもうない。
「謝、兄弟(ありがとね)」
青島に時折訪れる寝苦しい夜にも、ドミニクはきちんと人間を寝かしつけてくれた。その功績が、砂まみれで高鼾をかいた床の男たちと、もう一人。ハンスはベッドへ赤い瞳を向ける。
そこでは、若い女が寝息を立てていた。女は阿璃。ハンスは彼女の精気を頂戴するつもりでいた。
「きみは……本当に美味しかったんだろうね」
鮮度が落ちる魚を前にした料理人のように、ハンスは阿璃を見る。黒と深緑色に染め分けられたツーブロックの短髪。後ろから首を絞めるように翼を広げた蝙蝠の刺青はネオンピンク。台東三路で出会ったときは、この尖った外見を憂いが覆っていたのに。
後ろ髪を引かれる思いで、ハンスは床で眠る男の一人の前でかがみ込んだ。男の頭を持ち上げて額を合わせる。長い髪が垂れ、ハンスの表情を隠した。
しばらくして額を離し、「食事」と「情報」を一息に飲み込んだ。阿璃は上海から逃げてきて、追われている。もうすぐ増援が来るらしい。
「不味い」
ハンスは男を床に捨てた。捨てられた男は、20歳ほど老け込んでいる。
「……仕方がないかあ」
自身が定める食事のマナーに基づいて阿璃を抱き上げたハンスは、窓枠に足をかけた。
【つづく】