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感想 蔡國強《影:庇護のための祈り》

先日、国立新美術館の企画展『蔡國強 宇宙遊 ―〈原初火球〉から始まる』https://www.nact.jp/exhibition_special/2023/cai/index.htmlを見に行った。そのなかにあった作品《影:庇護のための祈り》の感想を書き留める。

キャプション

《影:庇護のための祈り》キャプション

以下、文字起こし。

火薬を爆発させて原爆を表現するのは、形式と内容の完璧な組み合わせと言えるかもしれません。この絵画の「X」型の構図は、核戦争に反対する姿勢を示しており、また作品の左上に描かれた飛行機の影としても見ることができます。その影には原爆によって焼け焦げた人々が、その飛行機の下には長崎に原爆が投下された時刻で止まった時計が描かれ、人類史上最も残酷な瞬間を暗示しているのです。右下の私の自画像の上には、鳩が歩き回ってできた緑の足跡があり、平和の象徴であるオリーブの枝のようにみえます。

《影:庇護のための祈り》キャプション

ここからキャプションに沿って感想を記していく。

飛行機の影

中央に大きく位置づけられて、この絵の中で一番注目がいくのは影で、それを作り出した張本人である飛行機は右上の隅にひっそりと描かれている。我関せずといった風に静かに飛んでいる飛行機の無機質さは、加害側が心を痛めていないように見える。正義は勝敗で決定され、その行いは(少なくとも実行当時においては)正しい行為として認められ、称賛すらされるのだろう。その裏で嘆き恐れる時間さえ与えられず影となった人々や、命は残ったものの大きな被害を受けた人々がいるという事実は軽視、無視され、正義の名の下で正当化される。その脆弱な正しさが戦争により盲目的になることを思わせて、自分がそうなってしまわないかという不安を抱いた。

焼け焦げた人々

原爆によって焼き付けられた金色の影は、全体として暗い絵の中で鮮やかに浮き出てくる。個々の影の形は様々で、大小関係無く無差別に爆撃を受けた跡として残っている。
Xとは別に描かれた手前側の3人の人影が、こちらの存在を知っていて訴えかけてくるかのようで、当時のあの場所と今この空間がつながっているかのような感覚になり、臨場感を覚え、正気を失いそうになった。過呼吸にさえなりかけていた。作品と、作品を通した作者の思いや題材となった情景に呑み込まれてしまいそうだった。

止まった時計

部品は破壊されているが文字盤だけははっきりと残っていて、そこに意図を感じた。1分1秒まで刻みつけて、決して忘れることなどないという強い執念に似た思いがあるように捉えられた。

緑の足跡

平和の象徴である鳩が自画像の上を歩き回り、足跡を作っている。しかし、その足跡はあくまで鳩のものであって私のものではない。私の意志とは無関係に、鳩が思うままに歩き、自画像の辺りに足跡が残されている。この描写から、むしろ平和が私の価値観を踏み荒らしているようにも思えた。戦争の悲惨さを目の当たりにすることによる反戦意識の強制が起こっているのではないか(その方向性自体は決して間違っているわけではないが)。
戦争の被害はだれがどう見ても疑いようのないくらい酷いもので、見た者の判断材料に意思決定の余地がないほど強烈なものだ。順序的な過程を踏み、戦争の悪を学んだ上で反戦意識が芽生えるのではなく、暴力的な惨さを見せつけて、無理やりひっぱたいて覚えさせる感がある。そうした脆く短絡的な意識は、その前提だけをひっくり返せば簡単に崩れ去ってしまいそうな感じがして怖い。自分で考えて判断できないほど強烈な刺激を残すのも戦争が持つ悪い点だ。反戦意識を自覚的に強固に持つためには、被害だけでなく加害側の背景も含んだすべてを知ることが必要だろう。

まとめ

火薬によって原爆の被害をできる限り生々しく伝えようとしている作品だった。私の人生において戦争が身近にあったことが無く、それゆえこの題材は確かにかつて自国で起こったことではあるが、あくまで歴史上の出来事であって自分の人生とは不連続のものである感覚だった。しかし、この作品によって、当時と今の空間がつながりを持ち、自分の中に戦争という傷が残されたような感じがした。この膨大な情報が自己の器に入りきらなくて潰されそうになる体験が、それだけで価値あるものだった。