【エッセイ】畜生道とアジアの音楽
「強風オールバック」がYouTubeで「アジアの音楽」というリストに入っていた。アジアの音楽。いやそうだけれども。
アジアの音楽ってもっとエスニックなものをイメージしてる自分がいるな、というムダな気づき。
父がYouTubeにハマっている。
別に構わないのだが、実家に帰ったら爆音でゆっくりボイスが流れる。父は耳が悪いからだ。
その中で母が変わらず料理を作っている。
なんだか秒針が動いているのか止まっているのかわからなくなる風景。
父は、とりわけ「根拠に乏しいタイプの健康チャンネル」と「やらかし系の事件事故解説チャンネル」を好んでおり、「スシローの事件は○千万円の損害が~」「日本で売っているサーモンのほとんどは身体に悪くて~」と俺に向かって講釈を垂れている。
俺は「そんなものは中学生で卒業しとけよ土人ちゃん」と思っている……が、黙っている。インターネット黎明期からネットに繋がっていた俺も、ちゆ12歳や侍魂で笑っていたことがあった。ばるへぶがお気に入りだった。僕秩の挨拶をmixiでマネしたりした。
これはいわゆるハシカのようなもので、誰でもかかるのだ。インターネットのビッグすぎるデータには誰もが虜になる性質があるのかもしれない。大人になってから罹患すると厄介なのも同じだ。
そんな父が「この料理は健康に気を遣っていない。お前もYouTubeを見てみろ!」と、母に言っているのを聞いて、やっぱゴミクズ昭和の男だな、と思った。おっと取消線の位置を間違えた。
というか、海原雄山かよ。ハンバーガーの食い方知らなさそう。
ここまで来ると妄執というか、宗教じみた話だと思う。
父が新興宗教のようにYouTubeにハマっていて、信者じゃない母に迷惑を掛けているのを見て、いつも『信仰の滑稽さ』としてあるエピソードを思い出す。
爺ちゃんが死んだ時、親戚が一堂に会した。一堂ってどの堂だ、と言えば爺さんなので御母堂ではないことは確かだ。
爺ちゃんを焼いている時、叔母が「飼っていたイヌが死んでとても悲しかった。みんなで決めて家族の墓に入れた」と話したら、別の親戚が「人の入るお墓に畜生を入れるんじゃない! 家族が畜生道に落ちるよっ!」とクソデカ大声で止めたことがある。
当然、場はシーーンとなる。なった。
叔母はそのイヌのことを家族だと思っているタイプの飼い主だったので「へぇ~畜生道にねぇ~うんうん」とうまくいなしつつも青筋ピキっているのを見て、私は外に出た。単に空気が悪いからだ。
なんというか、ここは爺さんを偲ぶ会のはずだ。
思い出を話すなり、親戚同士が集まって仲良くしているのを見せて、安心してあの世に行ってもらうのが狙いの時間だ。
それを「畜生道に落ちるだのどうだので他人の家庭に口を出す厄介な婆さん」のせいで場が最悪になった。
宗教は、本来ならヒトを心地よく過ごすためのルールに過ぎないだろうに、「ずいぶん細かいことを気にする神様ですねぇ」とか「畜生道って見てきたことあんの?」とか「日本仏教の元になったチベット仏教ではイヌもヒトも変わらず川に流しますけどねェ!?」などを思ったのを覚えている。
目的を逸脱したモノはいつだって輝いて見えない。
俺にとってその親戚の宗教観がそうだった。
【後記】
「お坊さんだって悩んでる 」(文春新書)という書籍がある。
内容は「お坊さんの悩みをお坊さんが聞く」というQ&A方式で、「動物を家族の墓に入れることの是非」が書いてあった。
曰く、「人と同じ墓に入れるのは宗教的には良くないことだけど、ペットが死んで間もない時は気持ちが高ぶっているだろうから一年ほど別の骨壺に入れておいて、一年後も変わらず家族の墓に入れたいならそうすればいい」という内容だった。
さすが坊さん、完璧な回答で「なるほどな」と思った。