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【少子化】死と本気の人生

どうも、悪い猫です。

適当にTwitterをしていたら、いつのまにかモテの仕組みを語るプチアルファとして注目されるようになりました。昔はナンパをして腕を磨いていましたが、最近はすっかり丸くなりました。

ノートの下書きが20件ぐらい溜まっていますが、そんなこと気にしない。思いついたことを書く以外に進まないのがノートです。

今回はですね。少子化の本質について話していきたいと思います。理由はいろいろありますが、僕は人類という哺乳類に現代社会が楽園実験しているだけのことだと思っています。

つまり、本来、生殖闘争の哺乳類にとって
1:「頑張っても限界が見える」
2:「頑張らなくても死なない」
状態がつづくと必ず少子化で滅ぶということです。

それだけ安全で豊かな社会になれば必ず少子化になる。なぜなら、人間が腑抜けになるからということです。ただ、それだけだとネズミに例えられてピンとこないので、人類の脳が分かる合理性や文化慣習的な話をしていきます。

俺たち私たちはいつまで生きているのか?

この時代ほど「死なない時代」はありません。

平均寿命は今でも爆増しています。お父さんもお母さんもおじいちゃんもおばあちゃんも死にません。永延の命を得ているかのようにミドサーや中年になるまで、ずっとどこかで生きています。

死ぬ悲しみもなければ、死に対して向き合うこともありません。

引用:上記URL


そして、幼児死亡率も減少しています。

引用:上記URL

みんな、少子化で社会が滅ぶと主張したり、いや「個人の選択なら自由で滅んでも美学でしょう」と強がったり議論していますが、

誰も死ぬリスクがないのになぜ新しい命が「必要」なのでしょうか?
何が楽しくて「確実に生まれる新しい命の確定ガチャ」を引くのでしょうか?
何が楽しくて新しい命が「失敗作になると困るガチャ」を引くのでしょうか?

少子化とプロスペクト理論

プロスペクト理論は、行動経済学の理論で、心理学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーにて提唱され、これが、行動経済学の基礎を築いたという理由で、2002年にノーベル経済学賞を受賞しています。

例えば:ギャンブルの2選択:

選択肢A:100ドルをそのまま受け取る
選択肢B:50%の確率で200ドルを受け取る、50%の確率で何も受け取らない

この状態では期待値は同じです。

しかし、プロスペクト理論の観点から考えると、人々は損失や利得を評価する際に損失リスクを回避する行動を取り勝ちと言われます。

この場合、多くの人は選択肢Aを選ぶ可能性が高い。なぜなら、確実な利得(100ドル)を得ることができるため、不確実な状況には入りたくないと感じるからです。この現象は「損失回避の傾向」と呼ばれます。

100ドルが「利確」しているから、それ以上の労力を出してまでこの「利確」を壊したくないのですよね。

少子化は、まさに「現在、利確した生活の楽さ」と「出産育児が与える幸福度の不確実性」を天秤にかけた場合に「損失回避の傾向」で必ず先延ばしにするものになります。

もっと広い範囲でも確定した利益を犠牲にして将来投資することが難しいことと同じです。将来の不確実性がある以上、必ず損失回避の傾向がある。

それが難しいことから、代償としてお金を貸し借りする場合には必ず「利息」をつけないといけないわけです。今ある利確したお金の方に価値があるので、その代償を利息として払わないといけないわけです。

しかし、人生はそんなに一直線で利益が進むイベントでしょうか?

本来、最期には「死亡する」という損失確定イベントが待ち受けていることを私たちは自覚できない時代にいるのです。

ゲーテ:「自らの死を受容してからはじめて人間になる」

「現在の利確を守る故に大きな利益をもたらす変化を恐れる。」これは、何も女性が出産に対して抱く不安のみでなく、男性が婚姻自体に対する恐怖とも同じ仕組みです。

案ずるより産むがやすしも、案ずるより嫁に取るがやすしも根源は同じなので、もし、人間に無限の命があれば危険は一切侵さなくなります。それへの唯一の対抗措置が「死ぬことが確定している」事実だったわけです。

しかし、上述のように「周りが死なない、自分も死なない、死ぬイベントが見えない世界」だとそれが分からなくなります。

確定しているはずのイベントなのに、人間が死を想像できないことを「死のパラドックス」などと呼ぶこともあります。宗教は死後の世界を想定することによって、強制的に信者に「死」を意識させていたのですが、世俗化された現在ではそれもありません。

損失確定している状況がないことから、損失回避の傾向がより強くなったのが、少子化社会の本質となるわけです。社会が安泰しすぎるとリスクを冒してまで、より多大な収益を求める誘因が失ってしまうのですよね。

ゲーテは「自らの死を受容してからはじめて人間になる。」
ユングは「男の子が大人になるのは、父親が死んだとき。」

と、「死」と「本気の人生」の関係についての名言を残しておりますが、我々人類は、ある程度、治安がぶっ壊れた場所がないと継続的な発展も繁栄もできないのでしょうか?実に、この社会はよくできています。

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