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【人生】なぜ宗教を論破できない?我々は「賢い」から宗教にハマる?!

どうも、悪い猫です。

本日はこのツイートについて少し話していきたいと思います。最近、お騒がせな新興宗教問題にについてです。全文、無料で読めます。有料コンテンツは追記程度にします。

悲しいことに、先週、安倍元首相が凶弾に倒れました。

どうも、容疑者の山上氏は母親が統一教会に寄付しすぎて破綻しており、宗教団体の統一教会に個人的な恨みを持っていた、その恨みが安倍元首相に飛び火したようでした。

一時期、身を潜めていた新興宗教(カルト)が、また、世間の目を惹きつけたわけですが、この技術立国の平和国家に、こんな組織が多数の信者を囲い込んで、人目のない場所で勢力を広げていることに驚かれる人たちも多いのではないのでしょうか?

神は死んだのでは?神だの仏だの神秘だのもう誰も信じないのでは?

なぜ、人類が火星に衛星を飛ばしている世の中で、神頼みの人たちが出てくるでしょうか?今回はこの話をしていきたいと思います。

実は「神」「天国」「教義」ってめちゃくちゃ人間に必要なんですよ。

我々は世俗化された科学の時代に住んでいる?


それでも、なぜ、宗教が跋扈するのか?

カルトと宗教の違いについて、世界一のPodCaster、ジョー・ローガンの意見を見てみましょう。基本的にこの人は無神論者、コメディアン、格闘家、実況家なので、こういう結論を出しています:

カルトはただの「デタラメ」(Bullshit)だ。その「デタラメ」の創設者がいて、そいつも「デタラメ」だと知りながら広めている。そして、宗教との違いだが、宗教ではそのクソ野郎(教祖)が「死んだ」だけのこと。キリスト教も、所詮はカルト。「人数がちょっと多いカルト」よ。(意訳)

…なかなかに説得力を持ってしまうようです。

はい、常識的に言えば、神だの神秘だの、ただのデタラメですね。(ちなみにこの人は「サンタクロースよりビックバンの方がデタラメに聞こえる」とも言っています。※まあ、その話はあとでします。

彼は、宗教が神秘によって世界を解釈しようとするのは、解明できない事象を目の前にした際の人間の畏敬の念を利用したマインドコントロールと主張しています。

誰もが「人魂を見たらそれは誰かの魂であって、天然ガスの燃焼とは思わなかった時代」があるのは理解できるでしょう、そのために何かに畏敬の念を持つために自己欺瞞したそうです。

宗教、それは科学的にあらゆる事象を説明できる世界では「説得力を持たない」ということだそうです。そんな我々は科学や論理や合理性を武器にしましたので、宗教家のいうことや教義なんて簡単に論破できると思いますよね?

果たしてそうでしょうか?

以下の歌の論破をしてみてください。


想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

「なんだ宗教なんて存在しないと言っているではないか、別に宗教ではないぞ」という方は、少し落ち着いてください。この歌は「理想郷」についての歌です。

誰もがお互いに傷つけることがない優しい世界、それは何か大きな信念の力によって保障された後の世界です。それを否定することはできるでしょうか?さて、この歌に反論するにはどうすればいいでしょうか?(まずなんでニヒニヒと反論しないといけないのかは置いておきます。)

「優しさがそこまでいきわたって世界が良くなるなら、そもそも国境が存在しないではないか?」という経験主義で反論することも可能ですが、こんな感じの答えが返ってくるでしょう:

「それはあなたの優しい想像(イマジン)が足りないからです。みんなが国境なんて必要ない優しい心を持てば、世界に国境なんて存在しないのですよ。」

はい、正しい心を持って実践すれば理想郷に近づく、現実には観測できないけれど、直感的には理解してしまう「自己完結した」理想的な論理ですね。

これは、まさしく、宗教的な実践なのですよ。人間の本性に非常に一致した教えなのですよ。賢い方はお気づきだと思いますが、この歌は「天国」について否定していますが、実は「新しい天国」について歌っています。

「宗教的な物語」というものは、宗教的な神秘とは思えない常識と直感と情動によって発生していくのです。それはとても生活的なもので人生的なものなのです。それを少し解像度上げて話していきます。

「心の持ちようで天国にも地獄にも近づける」に対して道義的に反論できない。


この論理は、我々人間が有限な生命であるからこそ思い描いてしまう本能による到達点です。「天国の存在」、つまり、理想世界へ到達するために、正しい心で精神を高めようとする考えです。

この「悪いことを想像して実践すれば悪い結果起こり、良いことを想像して実践すればよい結果が起こる」という直感によって、宗教物語のひな型を信じてしまいます。

それは、人間「愚か」だからではなく、人間が「時間」という概念を発見した賢い生き物だから、我々は宗教に惹かれるわけです。

この世界が赴く結果(自分が体験しうる結果)を、生きている際の行いを紐づけて語るものに対して、我々、人類はめっぽうに弱いのですよ。

「死後」への「投資」は宗教しか行えない。

畑を植える、勉強する、体を鍛える、財産を貯める、自己成長する、これらは「時間」という概念なしでは意義を持たないものです。未来に対する投資をしてそれに対して達成感を味わうからこそ、我々は知恵を絞って生きるわけです。

そして、それらには必ず「報酬」や「結果」というものが伴います。

畑を植えれば「食料が増える」し、勉強すれば「知識が増える学歴も上がる」、体を鍛えれば「体力が付いて強くなれる」、財産を貯めれば「危機の際に役に立つ」、自己成長すれば「社会地位が上がる」など、投資には結果(報酬)が伴うからこそ投資するわけです。

では、「死んだ後」に何を残せるだろうか?

「長期的に見たら我々は全員死んでいる」(ケインズ)という事実からどのように意義を見出せるのでしょうか?知識も財産も体力も墓まで持っていって意味がものは観測範囲としてはないのです。

そこで宗教はこんなことを言い出します:「すべての苦難を受け入れて、すべての努力を捧げなさい、それで楽園に行けます。」

神や天国という概念を持つ宗教は「死後に対する投資を生前に行える唯一の論理」であるのですよ。これによって、生前のどんな犠牲も行いも「いつかは報われる」という現在の苦痛への投資が将来の享楽になるという「時間軸」で考えた場合の「遅延満足」が発生するわけです。

「数学者パスカルの賭け」という有名な論理演算があります。

神を信じた方が現世でもお得だし死んだあとも(万が一神がいたら)お得という話です。半分は「神がいたらいいな」ですが、もう半分は「神がいると仮定して現世を生きるとイキイキする」(死後の世界に投資できる)という話なのです。

この仕組みにより、仏教であれユダヤ・キリストであれ、一見、何の意味も持たない苦行や受難に長期的な意義を持たせられる教えは、人間の本能に非常に相性が良い教えになります。

未来に対して現在の苦痛で投資している感があるのですよ。

そうでなければ、人間は「時間」の概念があるので、焦燥感に焼かれて悶え苦しみます。

苦行や犠牲を重ねて、精神を高めて(今の言葉で「自己成長」)して、最終的には天国や涅槃に到達できるわけです。苦行というは、現世で何かを達成するわけではなく、魂という「永遠的な存在に何か価値を付与すること」につながるわけです。

意味のない苦行でもその分の結果を保障してくれることが、どれだけ弱者の救いになるのだろうか。

現代の「努力をいくらしても何も結果を出せない凡庸さ」を生きる人たちが苦悩する「実力主義、才能主義」の資本主義社会よりも、遥かに人間にとって魅力的な宇宙観を宗教は提供してくれるわけです。

いくら努力しても才能がある者には勝てない、でも、心が正しければいつかはみんな救済される。死後の世界は優しい人たちだけの楽園なので「自分より有能で強い人間にマウントされることはない。」

これ以上に弱者にとって魅力的な考えがあるだろうか?

「天国」「極楽浄土」「涅槃」「桃源郷」そして「ユートピア」


このように、宗教の強みは「楽園」(報酬)の提供です。

苦行の最終段階としては、殺伐とした現世から離れて「優しい心しか持たない人たちによる楽園」へと人間は向かうことができるのですよ。

そうでなければ、理不尽な苦難ばかりである人生を通じて、我々は現在の生に意義を持たせることが難しくなります。そして「神が死んだ」科学的な殺伐とした近代社会では、なおさら、宗教的な「楽園」への「投資」の飢えが加速することになります。

近代理性主義は宗教の「楽園天国」を「楽園ユートピア」に変換しただけのもの。

一方、宗教の神秘の部分である力が弱まり、科学が跋扈してくると科学や論理は事象を説明する新しい科学が「神々しい」存在となってきます。

そこで、天国がなくなってしまった人間は新しい楽園を作ってしまおう考えるわけです。地上にある地上の楽園を科学と論理を駆使して作ろうとするわけです。

それが近代の理性主義(国家主義や社会設計主義)につながるわけですよね。共産主義ユートピアがその代表となるわけですよね。単純化のため以下の動画を使います。

歴史的な必然的な法則に従って、我々労働者は、苦行や犠牲を通じて共産主義社会という楽園に向かっているという物語です。

少し、具体的な話をすると「科学的社会主義」がまさにこのおまじないです。科学と名をつけても、結局は、労働者主体による階級闘争を通じて社会を転覆させて「理想の楽園」を作ってしまおうという力技です。(科学どころか完全に「人為」やんけと何度も心の中で突っ込みましたが。おっと誰かがきたようだ。)

その地上の楽園を作るために、我々は現世の苦行を背負い込むべき、犠牲を払うべき。という人生イデオロギーを東の国々ではインストールします。

それが詰め込んだ共産圏必読のプロパガンダ小説に『鋼はどのように作られたか』があります。その名言を引用してみましょう。

“Man's dearest possession is life. It is given to him but once, and he must live it so as to feel no torturing regrets for wasted years, never know the burning shame of a mean and petty past; so live that, dying, he might say: all my life, all my strength were given to the finest cause in all the world──the fight for the Liberation of Mankind”

― Nikolai Ostrovsky

「人間の最も大切な財産は命である。一度しか与えられないものだから、無駄にした年月を悔やまないように、卑小でちっぽけな過去の燃え上がるような恥を知らないように、死ぬ間際にこう言えるように生きなければならない:私の人生、私の力のすべては、世界で最も素晴らしい大義に捧げられたのだ--人類解放のための戦いだ。

DeepL
引用:北斗の拳(ラオウ)

なんか胸が熱いですね。これが宗教やイデオロギーが人々に与えるものです。「自分自身の苦行が壮大な楽園に向かう物語の中に組み込まれている」ことを人間は渇望してしまうのです。

そして、最終的な到着点として、
1:世界に楽園を作ること(理性主義)※神が保障
2:死後の世界に楽園が待っていること(宗教)※偉大な指導者が保障

これらを「神」や「偉大な指導者」という全知全能の力が「犠牲や投資」の「結果」として保障することができれば、人間はコロッとそういう生き方に魅力を感じてしまうわけですよ。

ちなみにナチスも同じです。

理想社会の実現に対して犠牲を払えと言っています。自らの努力だけではなく「道義的な犠牲を払え」という話です。

「我々に課せられた目下の急務は総統と国家社会主義の公然、隠然たる敵を暴き、これと闘い、撲滅することである。この任務を遂行するために我々は自らの血のみならず、他人の血をも流すことを覚悟せねばならない。」

ハインリッヒ・ヒムラー

これは、一見、他人を犠牲にしているような残虐性に見えますが「自分の道義性を犠牲にせよ」というメッセージです。

宗教もイデオロギーも「大いなる楽園への物語」について人々を組み込み、それに対して苦行や犠牲に投資的な意味を持たせるものです。そして、それは、誰でもある程度「実践する条件を持つ」こととして設計されています。

さて、「楽園への大いなる物語」という誘惑を完成させるには、宗教の教えというのは、ものすごく重要なものを人々に与えないといけません。

宗教は「価値体系」を与えてくれる

楽園までの物語を保障されても「どのように到達するか」を示さないといけません。そこで、宗教は「何が正しい生き方なのか」という善悪の指標を人々与えていきます。「心の持ちようで天国にも地獄にも近づける」という話に戻ります。

それは、生きる上で欠かせないのに、現代社会で蔑ろにされているものです。我々はみんな知っているけれども、当たり前すぎてその重要性に気が付かない。

何が正しい生き方かは、知っている時もあるけれども、あまりそれを整合的に考えない、そんなものになります。現代社会の人々が抱える「心の空白」です。

このノートにつながる話になります。

なぜ善悪はこんなに分かりにくいのか、現代社会では善悪(道徳)の話は強弱(実力)の話にかき消されるからです。

スゴイ人は自分をエライと思ってしまうのですよ。ニーチェは実力の話を道徳に混ぜるなと警告を出しましたが、道徳の話を実力の話に混ぜるのも危険なのです。

実力があるから正しいわけではないし、
正しいことが言えるから実力者でもない、

単純そうに見えてこれらのことは現代社会では非常に分別が難しくなっています。男女論で一番よく聞くことなのですが、善悪の道徳の話をしているのに「それだからモテなさそう」と反論されること、また、自分がモテることが目的なのに「道徳的に非モテを救え」という話が広まってしまいます。

実力は正しさであって、弱いことは罪である

そんな末法の世の論理で、我々は平和に生きているわけなので生き方を迷走してしまうのです。

善悪の舵をとって楽園へと向かわせるのが宗教

一方、宗教の世界観では「何が望ましいのか」が楽園までの道のりとして体系的になっています。詳しくはそれぞれの宗教団体の教義を覗いてみましょう。幸福な楽園への道筋が必ず示されているでしょう。(揉めそうなので実例は挙げません。)

目的合理的な筋としても、楽園を保証しても「選ばれた人間だけが到達できる」という信賞必罰を設定しないといけません。そこで何が品行方正で「楽園へのチケットを持つ資格」あるかを決めるために「教え」(教義)が存在することになります。

ほとんどの場合は人生経験で確かに幸せになれる方法論に混ぜ込みます。それすら現代社会では教えられないので、悲しいものです。

人生に意義を持たせ、能力が足りない人間にも道徳的に正しく生きるチャンスを与え、人々にいい人間になって欲しいというのが宗教です。そこまで聞くと何だかいいもののように感じられますよね?

果たしてそうでしょうか?

霊感商法は現代カルトだけの話?

宗教と聞いて「ウゲー」となる理由の一つに霊感商法があります。金を払って「楽園へのチケット」を買えるというシステムで宗教法人は潤います。

中には一見、何の価値もないものに対して大金を積んで買わせる宗教法人もいたとか何とかですが、あたかも「霊感商法があるからカルト」というイメージを人々に与えているます。

「これさえ買えば「楽園」への近道になります」と、チート兵器を売りつけるわけです。それだと宗教ではなくカルトという印象らしいのですが、しかし、本当にそんな定義でいいのでしょうか?

霊感商法には、長い人類の歴史があるわけですよ。代表例として世界史で学んだことを思い出しましょう。

ローマ教皇がドイツにおいて贖宥状を発売したことに対してルターが1517年10月31日、ヴィッテンベルク城内の教会の門扉に『九十五ヶ条の論題』を発表して批判したことから宗教改革が始まった。

世界史の窓:http://www.y-history.net/appendix/wh0903-005.html

贖宥状は免罪符とも言う。贖は「あがなう」こと、宥は「ゆるす」ことを意味し、罪の許しをお金であがなう(買う)ということになる。一種の「お札」でそれを買った人は現世の罪が許され、天国に行くことができる、また死んだ人のために買えばその人も救われるとされた。教会は贖宥状を販売して教会の収入にしていた。

世界史の窓:http://www.y-history.net/appendix/wh0903-001.html

本来、誰が天国に行くか誰が地獄に行くかは、現世の行いや徳によって決められる、そのための正しい行いを教義(教え)によって広めていくことが宗教でした。

しかし、16世紀のヨーロッパのカトリックでは「天国へのチケット」「良き人間であるための証明」という「品行方正の行い」でしか得られないものを「お金」で売っていたのです。

まるで競技ゲームでチートModを販売する業者です。

ジョーローガン by Spotify

そして、既にお気づきだと思いますが、当時のローマ教皇が「贖宥状」、つまり「徳」を信者に売る行為というのは紛れもなく霊感商法だったのですよね。買った人間がどれだけ性根が劣化していようとも「天国に行けると思い込める」わけですから。

しかし、神様が本当に存在していたら、そんな人間の強欲の権化のような札一枚で「天国へのチケット」を渡すのでしょうか?買うやつも売るやつも地獄行きならスカッと人類史ですが、そこは神とか関係ないのですよ。

ローマ教皇が神様に代わって配布しているわけですから、どこかの現代カルトの教祖みたいにですね、彼に神の言葉を代弁する権力があるわけですよ。それで、金や地位がある人間はそれを信じてしまうのです。

日本の仏教も室町あたりで権力者に癒着し回ったと言われますし、これは、もう、宗教である限りどうしようもないのですよね。

当時は、中世は貴族や権力者が小金を持っていただけのこと。百姓に資本の貯蓄はなかった。だから百姓をターゲットにしているように見えなかっただけです。

現代は、我々のような普通の中産階級がそれなりに余分なお金を持っているので「宗教腐敗」のターゲットになるだけの話です。まあ、後から「ぴえん」する権利も持つので霊感商法が暴かれて目立っていくだけなのです。

宗教は「人生にとって誘惑的」な「教え」

なので、宗教「だから」霊感的でカルトで他人の人生をめちゃくちゃにしがち、というとそんなことはなくて、宗教はあくまで、

1:楽園の存在を信じさせて
2:正しい行いで人々をそこに向かわせて
3:現世の苦難に意義を持たせる

教えなわけです。

まじ無理ゲー人生に意義を見出せない、
正しく生きるためにどうすればいいか分からない、
自分と世界をどこに向かわせるべきか分からない、

これらの答えを自分で持っていない人間は簡単に宗教の教えに没頭していきます。逆にこれらの答えを体系的に明確に持っている人間は宗教の創設者になれるポテンシャルを持っています。

普通の若者はこんな感じで自分を賢いと思い込んでいても「人生についてはよく分からない」のではないでしょうか?宗教って、信じちゃった方が楽なのですよね。迷いもなくなります。宗教的な心を持つと人間は確かに幸せになれるというデータも存在します。


ただ、この宗教には必ず「善悪の価値体系」が絡むからそれを決める人間が存在し、他人の行動の善悪の解釈権を独占する権力を持つのです。その権力は正しく使われることもあるし、人間なので私利私欲のために腐敗することもあるというだけの話ですね。

人間の営みなので「あらゆる権力は腐敗する」というリスクを持つだけの話なのです。

腐敗した宗教に責任を持つのは金を貰う方か?与えるほうか?

ここで面白い現象があります。

中世での宗教の腐敗を見る際に「権力者」が宗教に癒着したという見方をしますが、現代では「百姓の人たち」が完全な被害者であるかのように印象付けられます。

そもそも品性を完成して昇天するのは簡単なものではないのですよ。それを金で買おうとする浅はかさが人間の業だったのです。

果たして霊感商法は、腐敗し堕落した人間が「売りつけたから」存在するのか、それとも堕落した人間が「金で徳を買おうとした」先で求めたものなのか?それとも何を教わっても理解できない人間たちが「楽園に向かうための全権委任法」を欲しがって生み出したのか、

その中に入れない我々には分からないでしょう。

どんな素晴らしい教えを説いたところで、人間という生き物の性根は変わらなかったということでしょう。

せっかく人生に意義を教えるものに出会っても、それすらも「人間的な腐敗」を経験していくわけですから、「神は人間によって死んでしまった」という悲しい事実を背負って、自分を信じて生きるしかないようです。

それは神を信じて十字架を背負う人たちよりも遥かに孤独な戦いを迫られることにはなりそうです。

神を信じるかって?そりゃ信じるさ、俺が神だ。人間が神だ。

映画:『男たちの挽歌』

そんな寂しい現代人たちもコロッと宗教に洗脳された方が精神的には楽なのかもしれません。


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