【恋愛】愛を愛で経営してはいけない:卵がすべて「愛だった」という悲劇
どうも、悪い猫です。
適当にTwitterをしていたら、いつのまにかモテの仕組みを語るプチアルファとして注目されるようになりました。昔はナンパをして腕を磨いていましたが、最近はすっかり丸くなりました。
ロマンという毒
奥さんからこんな物語を聞いた。
とある女の子が20歳の時に40代のバンドマンと付き合っていた。ことあるごとに男にマウント嚙まされて喧嘩をしていて、何とも耐え難い日々を送っていたけど、なぜか恋愛関係が続いていたそうだ。
それはなぜかというと、そのバンドマンは自分がラジオに出たときに急に彼女ちゃんをべた褒めしたり、思わないサプライズプレゼントを特別な日に用意したり、誰も思う付かない形で愛を表現している。
とにかく「ロマンチック」には手を抜かない男だったのだ。毎回、喧嘩で疲れて別れようと思っている彼女ちゃんも「やっぱり大切にしてくれている。もうちょっと我慢しよう。」と思って、だらだらと20代を消費しているわけだ。
ロマンというのは実に毒なものである。
我々は「たった一人のたった一つの永遠の愛」そんなロマンの為に恋愛して結婚すると思い込んでいる。でも、婚姻生活が上手くいっている人たちは、口々にこんな言葉をいう:「婚姻とは我慢の連続だ。恋愛は非日常であり、婚姻は日常でしかない」と。
まるで、これではロマンや愛とは関係ないではないか。お互いに慣習が違う人間であっても愛によって我慢できるのではないのか。それは違うのか。
かご一杯の愛は危険である。
恋はジェットコースター、そんな歌を思い出す。
ジェットコースターは確かに乗り物として楽しい、刺激的だ。しかし、そんなもので日常生活を送れるのだろうか。通勤するのにジェットコースターを使うべきなのだろうか。いや、その必要性もリスクも必要ないのだ。
人生は無事「これが名馬」なのである。感情経営も同じだ。淡々と合理的にしんどくない日常を平然と経営できることが長期関係の要なのだ。「刺激はあるけど、前提はしんどくない」絶妙なバランスが必要なのだ。恋で恋愛し、愛で結婚するように見えていて、恋愛が婚姻生活で占める割合は非常に小さい。
なぜなら、愛がたまたまない時だってある、それを支えるのが友情だったり絆だったりするわけなのだから。愛だけで経営されている家庭は、衝動的な愛がなくなった瞬間に崩壊してしまう。
何を言っているのだ、ラブソングはすべて「愛があればこその絆」ではないか。
この歌詞は決して「衝動的な愛に関するもの」ではない。これは絆と友情に関するものだ。コクのある愛だ。もっと言えば、お互いに配慮することで実現している協調を意味しているのだよね。
なぜなら、「人間お互いに慣れてくると歌を聞いてくれるどころか、セックスさえ、めんどくさくてままならなくなる」。
少し前まで、フジテレビでこんなドラマが話題だった。
夫婦のセックスレスドラマだ。どんなに頑張っても、旦那がシしてくれない。そんな萎え萎えの女性主人公が、葛藤をしながらも、職場の3代目JSoulイケメンとイチャイチャし始める不倫ストーリーとなっている。
「なんや、不倫やんけ。ほんま飽きないなお前ら。」と思いつつわいふっふと見てみたらこれは途中まで面白かったのだが、夫婦のほんの少しの気持ちのすれ違いでお互いに修復できないステージに発展していく物語が生々しく綴られていたわけだ。
セックスレスというのは、まさに「夫婦の愛が”たまたま”ない時」、そんな瞬間を、どのように乗り越えるかという超リアルな話なのだ。
Aimerの聞きながらなんて話題に移るんだコラ!という気持ちも分かるが、しかし、これが何十年も共に過ごす男女の現実だ。
愛でセックスする夫婦は、愛がない時にセックスしなくなる。そういう極端なジェットコースターが衝動的な愛なのだ。
そんな愛はゴミである。
本来、長期関係のセックスは愛でするものではなく、お互いへの配慮、極論を言えば作業ですべきものなのだ。
赤ちゃんはふれ合いがないと「死んでしまう」
ネグレクト実験というものがある。虐待ネグレクトがどれだけ人間に影響するかを実験している。
赤ちゃんが愛を欲しがっている時に「今そんな気じゃないから与えない」なんてことができるだろうか。
我々は責任感で愛を与えて抱っこしたりミルクを与えたり遊んだりしている。それに対して赤ちゃんは喜ぶ、そしてそれを見て私たちも喜ぶ、それをきっかけに家庭が幸せになる。
愛を経営するきっかけなんて愛でなくて大丈夫なのだ。やるべきことをやった結果として愛が付いてくるだけの話なのだ。(これは幸福も同じこと)
振り返ればそこに「愛」があった。
特別な気持ちを持って愛情表現をする人間は、特別な気持ちがなくなったら愛情表現をしなくなる。しかし、人間力が高くて情緒が安定していて協調性がある人間は、君が愛を必要とする時に必ず力になる。君も相手にとって同じだ。
つまり、そういうことが言いたいのだ。
愛以外にも人間としての尊重や信頼があれば、相手が愛情表現が欲しいと分かったときは、とにかく人間として喜ばせようと「愛情表現」に協力していく、この積み重ねが絆になっていくわけだ。
きっかけは単調でも振り返ればそこに愛があったわけだ。もう一度聞いてみようか。
愛は特別であると言いつつ、特別なものなんて必要がないことが「愛」だ。ただ、淡々と傍にいること、振り返ればそこに「愛」がある状態だ。
急にドキドキさせてくれる人に依存するのはやめよう。
恋のロマンは毒と刺激であるのに対して、愛は薄い日常の中で淡々と積み重ねていくもの。特別な日を求めるぐらいなら、変なことで喧嘩しないでお互いに一杯時間をかけよう。友情と信頼を育てていこう。そこで初めて愛は映えてくる。
そんな話を若い人向けに書いたのがこのノートである。愛の経営は愛でしてはいけない。同じかごにロマンを一杯に積むべきではないのだ。婚姻相手に情緒の安定さ第一に求めるというのは、つまり、こういうことなのだ。
ーーーーーーーーーーーーーー以下追記ーーーーーーーーーーーーーーー
振り返ればそこに愛される「モテ」はあったのか?
では、追記で「恋愛弱者」にならないために重要なことについて語る。夫婦関係には「振り返ればそこに愛はある」という話だが。さて、それ以前の問題がある。
まだ、付き合ってもいない男女の間で、振り返れば実はそこにモテ(愛されること)があったのか?ということを考えていきたい。
よく恋愛弱者はこんなことを聞いてくる。「昔、クラスの中で好きな女の子がいたが、よく僕に笑ってくれた。これは僕のことが好きなのだろうか?」
典型的な恋愛弱者である。
それは君の愛であって、その娘の愛ではない。その娘の愛は体ですでにクラスの悪ガキに捧げている。
美しいものだけを見ようとすると視界が歪む
ヒーリンググリッドというものがある。画像中心部の模様は整然としているが、両側の端に向かうほど格子模様は規則性を欠く図形だ。
この中心に位置するのが君の愛だ。綺麗に整った世界が認知世界に存在している。しかし、この図形の実験はこうだ。
中央の格子を約20秒間凝視すると、その整然としたパターンが周囲の不規則な領域に広がる幻覚が生まれる。この幻覚は、視覚野を一点に集中すると、その周辺のものまで低解像度になってしまうことを意味している。
美しいものだけを見ようとすると、人間の脳は現実を理解できなくなるのだ。「そこに愛は本当にあったのだろうか?」それともただの幻想だったのだろうか?
ナイーブさというのはこういうものだ。親の愛に守られている世界からは、その外の世界を見ようとしても視野が歪んでいるものだ。現実はもっと生々しく魑魅魍魎としている。
君は愛に執着すればするほど、歪んだ現実の世界のどこに愛があるのかすらわからなくなるのだ。
愛を手に入れたいか?他人を惹きつけられる人間になりたいか?急がば回れ、ドラゴンボールの話に飛んでみたいと思う。
ベジータとスーパーサイヤ人
フリーザー編で悟空に戦闘力を追い越され傷心のベジータがスーパーサイヤ人を目指す。
どうも「おだやかな心を持っていないとスーパーサイヤ人になれない」ので、執着を持っていくら修行しても、修行すればするほど本当の強さに遠ざかっていく一節がある。
まるで愛を渇望した非モテのようだ。これは、なんとも理不尽な話だ。誰よりも強さを求めるベジータには残酷すぎる。
しかし、展開は一転、人造人間編で悟空のピンチに突如としてスーパーサイヤ人が現れる。そして、その経緯を主人公達に語り始めるのだ。
「ぶっちゃけ意味がわからん。」と思った読者も多いだろう。
ジャンプ漫画の七不思議の一つ「スーパーサイヤ人のバーゲンセール」と簡単に「少年漫画の盛り上がりご都合主義」と切り捨てることは簡単だ。
しかし、このシーンの登場当時、我々、読者はなんだかんだその光景を「言っていることわかるわー」とちょっと共感できるのだ。
以下有料部分。虚無感非モテ脱出マインドについて解説する。(主に男性向け・女性歓迎・返金可能)
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