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【恋愛】子供を産まないは「誰のせい」でもない。という話。

どうも、上海から来ました悪い猫です。

適当にTwitterをしていたら、いつのまにかモテの仕組みを語るプチアルファとして注目されるようになりました。昔はナンパをして腕を磨いていましたが、最近はすっかり丸くなりパートナーと一途なゆるふわな婚姻生活を送っております。

今回はですね。非婚化少子化は誰のせいかという話をしていきたいと思います。結論、誰のせいでもないです。だって、誰も何も決めていないのですから。

時代が変わってきた、どうもこのキラキラ非婚化無産社会で「ギリギリ助かった女性」たちの声が大きくなっているようだ。

と思ったら同じ方が称賛の声を浴びつつ、少し「助からなかった女性たち」をおちょくったら、大バッシングされたのである。今回はなぜこんな180度の様子が観測したのかを説明していきたい。


ミソジニー界隈では、女性に性的自己決定権を与えたせいで理想が高くなり、非婚化が進んだというのが定説となっている。しかし、よく考えてみればこの見解には誤りがある。という話をして行こうと思う。

結論から言うとなぜか:

物欲や性欲には「主体性」が存在しない。

欲望とは、人が生きる上で自然に湧き上がるものであり、それ自体に善悪の判断や選択の自由はない。

ただし、欲を克服し、それを自らの意志で制御できるようになったとき、初めて「主体性」が生まれる。自己決定とは単に欲望のままに行動することではなく、欲を見極め、選択し、時に手放すことでもある。ゆえに、非婚化の原因を女性の自己決定権に求めるのは短絡的であり、本質を見誤っていると言えるだろう。

これはどういうことかというと、イマドキの恋愛経験が浅い男性の行動を例に挙げれば理解しやすい。

例えば、
1:「街に出て女の子を口説かずに」
2:「AVを視聴して欲望を解消する行為」
これが主体的な行為かどうかを考えてみるとよい。
これと何が違うのか?「モテよう」と決めてから逆算した行動を取れることが主体性ではないか?

白馬の孕ませ王子様と何が違う?

多くの場合、それはスマホをポチポチと操作しながら流れてくるエロコンテンツを消費し、何となくたどり着いた結果であり、そこに主体性は存在しない。

同様に、女性も本能的に高望みをしながらリスクを回避しようとする傾向がある。そのため、20代のうちに自らの「運命の人」を認定し、積極的に結婚へと進むことは非常に困難な行為となる。

運よく王子様に巡り会えて産んでもそれはその時その時の流れに乗った「ご縁」であり、「産む」と「決めて」から逆算した行動を取った結果ではない。

後者が主体性ではないのか?

主体性とは、近代合理的な判断に基づき、自らの利益を長期的に計算しながら行うものである。男も女も、恋愛において、その性欲が積極的なものであれ、消極的な拒絶のものであれ、本能のままに動いている限り、20代で成婚することは難しいのだ。

ホテルに入る=セックスの同意の問題点

これは性被害が度々男に理解されない問題の根源は同じだ。

枕営業なのかその場の流れで嫌なことをされたのか、どこに主体性があり、どこまで周囲の圧力だったのか境界線は曖昧なのだ。流れでそんなことをするようになった場合、どこから自己決定してどこから抵抗を放棄していたのか?

馬鹿げた話だが、性被害の定番論争である「ホテルに入ったあとのレイプ体験」がその象徴だ。ホテルに入る=同意ではないの話だ。

これは至って簡単な話である:「ホテルに入る」ことすら「自分で決めていない」からどうして「ホテルに入る」を同意と判断するのかという人間の主体性のなさが凝縮された話である。

女性が完全にホテルに入ることを決めているだろうか?ナンパの楽しい雰囲気に飲まれてその場その場の流れでホテルについて行ったことは「主体的に決めた行為」と言えるのだろうか?

ナンパ師の楽しそうな雰囲気に感染して自分も楽しそうになってしまった。欲望の感染ではないか?

欲望は感染する

数年前に物議を醸した「だって幸せになりたい」は人間の主体性なき欲望の本質を表している。


Domani(ドマーニ) 2016年5月号 (発売日2016年04月01日)https://www.fujisan.co.jp/product/1886/b/1355735/

人間の欲望は自分が決めているものではない。これはポストモダンの精神医学でさえ指摘されていることだ。

メルロ=ポンティは、欲望が個人的・内面的なものだけでなく、社会的な関係性やシステムとして機能すると考えている。彼は、欲望が自己と他者、自己と世界を貫く存在論的なものであり、快や不快と結びついた「肉欲」として捉えていた。他者の身体の知覚が自己の身体の成立にとって構成的であり、自己と他者の身体経験が一つの全体を形成すると指摘している。

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/66659/mp_33-001.pdf

またまた難解な話だが、これをどういうことかというと「つまり、私の欲望は他者の欲望が決めている」という徹底した自己決定の相対化なのだ。

自己の「肉体的な欲望」は「他者の欲望」が決めているものだろうか?こんなにも自他境界が曖昧な生き物である人間が、成人したからといって主体的に何かを決められるのだろうか?

戦時下ではなんとなく兵士になることが名誉とされ、ポリコレ下ではなんとなくLGBTに共感することが名誉ある人間とされている。社会の欲望に感染しているだけなのに、全てあたかも自分の正義が決めたかのように行動するのが人間である。

『はだしのゲン』1巻:男がホテルに入る瞬間

どこからが同調圧力か?

「自己決定権」とは単に「邪魔されずに選ぶこと」なんていう程解像度な話を意味しないという点である。真の自己決定が己の欲望と他者の欲望を制御し、合理的な判断のもとで未来を見据えた選択を行うことを指すのなら、相当、敷居が高いものではないか?

さらに厄介なのは、現代社会においては「自由」という言葉がしばしば誤解され、欲望の赴くままに行動することが「自己決定」と混同されている節がある。この混同こそが、非婚化を男女がお互いの責任に擦り付ける背景にある要因のひとつと言える。

この「責任を放棄できる被害者身分こそが至高」という欲望こそ、現代社会のメンヘラ欲望を、個人が感染した一種の結果ではないだろうか?

そして、テクノロジーも人間を崖下に突き落とす。

現代の恋愛市場では、選択肢が無限に広がっているように見える。SNSやマッチングアプリの発達により、人々は理想の相手を求め続けることが可能になった。

しかし、これは「主体的な選択」をしているのではなく、むしろ選択肢の多さに翻弄され、判断を先送りにするという「非主体的な状態」を生み出していると言える。

つまり、本能的な欲求のままにより良い相手を探し続ける行為は、合理的な自己決定とは異なり、むしろ決定を回避するための手段になっているのだ。

このように考えると、非婚化の要因は「女性の自己決定権」にあるのではなく、「アプリオリな自己決定そのものの高難易度」にあることがわかる。

欲望を抑え、長期的な視点に立って合理的に判断することができる人ほど、主体的に結婚へと向かうことができる。

ジョジョ4部

そんな簡単なことがあるわけがない。それは人間ではない何か狂人的なものを目指さないといけない。

我々は常に他人の欲望と自分の欲望の境界線もわからないまま、その制御もできないまま、ましては、欲望の中から本当に何を追求するかの意義も知らないまま、自己決定した気になっている/抑圧強制された気になっているのだ。

欲望のままに選択肢を広げ、何も着地点すら捕らえないことを続ける限り、成婚どころか人生すら舵を握ってわけではないことに気がつくだろう。

結局、近代人は誰も「超人」になれなかった。


結局のところ、非婚化の根本的な要因は、現代人が主体性を持った選択をすることが難しく(そもそも不可能だった)なっている点にある。選択肢の多さや、欲望をすぐに満たせる環境が整っていることが、むしろ主体性を奪っているのだ。

結婚というのは、短期的な欲望を超えた「選択」の結果として成立するものであり、そこには成熟した自己決定が不可欠である。本能のままに行動するだけではなく、自らの価値観と向き合い、長期的な視点で選択を下すことこそが、真の「主体性」と言えるのではないだろうか。

しかし、残念ながら人間には長期的な計算をして行動する能力はなかった。

ケインズが言うように「長期的に我々は皆死んでいる」のだから、刹那的な「生きている実感を求めて」本能の赴くままに生きるのは当然だ。

今日も女性は暴力的なアルファに惹かれながら非モテを嘲笑し貴重な20代を浪費する、男性はアニメやAVに没頭しつつ三次元の女性を怖いと蔑む。

結局、10年後の家庭や子供よりも、明日買うバッグやゲーム、刹那的な快楽を優先するのが人間の性なのだろう。まあ、明日に死ぬ可能性を考えれば、それも間違っていないのかもしれない。むしろ、この体たらくの方が生物としては正しいのではないか?

結論:
・非婚化と少子化は誰も産むとも産まないとも選択していない。
・欲望に任せて流れ着いた結果である。
・その欲望も他人の欲望の感染が殆どである。

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