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右手左手物語

「お姉ちゃんって、左利きに敏感よね」

あるとき、妹にそう指摘されるまで、全く自覚はなかった。


料理番組を見ていても「あ、あの人、左手で包丁を使っているね」

スポーツ観戦をしていても「卓球って、左利きだと有利だったりするのかな」

初対面の人に向かって、「へぇ! 左利きなんですね~!」

自分の言動を振り返ってみると、確かに、これは、敏感の域に入っている。
なぜなのだろう。


左利きの人から、「左利きあるある」を聞くのも好きだ。

「小学校の頃、書道教室で無理やり右利きにさせられてさー」
とかいう話を聞くと、なぜか「うらやましい」という感覚になる。


さらに、

「おかげで、今なんて両利きでさー」

とか言われた日には、

「それって、左手で字を書きながら、右手でお箸も使えるってこと?」

「か、かっこいい!」

という、ちょっと意味不明な感覚にさえ、なる。


「駅の改札口で、suicaをピッと鳴らして出入りするのも、やりにくいんだよねー」

などと言われると、


「そんな感覚、味わいたい!」

と、結構マジで困っている人に対して、不謹慎な自分が出てくる。

そんな左利きへのあこがれとも言える感情は、相手の年齢、性別、職業……そういったものは、どうやら関係ないようだ。

現在10歳になる甥っ子は、左利きである。

自分でスプーンを使えるようになった頃、そのおぼつかない小さな手から、

「どうやら僕は左利きである」

という匂いをぷんぷん漂わせていた。

「いいぞ、いいぞ~」

と、なにがいいのかよく分からない褒め言葉を、彼の叔母さんは投げかけていた。


甥っ子の左利きは、父の遺伝のようである。

つまり、私の兄なのだが、子どもが生まれるまでは、彼が家族の中で唯一の左利きであった。

子ども心に、「家族の中でひとりだけ違う」という事が、それだけで特別感があった。


世界中で、左利きの人口はどれくらいなのだろう。

調べてみたらおおよそ10%と出てきた。
これまた、私の左利きへのあこがれを加速させる数字である。

10人に1人。
100人に10人。
1000人に100人。
十分な特別感である。

先日、本屋で『左利きの本』というムック本を見つけてしまった。

傍には、本屋さんによる「驚きと共感の連続!」というコメントまで付いている。

どれどれ、手に取って開いてみる。

例のごとく、私の好物である「左利きあるある」が、よく知られているようなものから、初耳のものまで、たくさん紹介されているではないか。


左利きの人に向けてのグッズも、調理器具から文房具まで、いろいろと掲載されていた。

中でも、気になったのは定規。

目盛が逆になっているというそれを、使いやすいと思える左利きの人々って……。

ここでもまた意味不明な「かっこいい!」が、私の中で沸々と湧いてくる。


ムック本には、「左利き専用メジャー&定規のおまけ付き」とまで書いてある。

「つ、使ってみたい……!」

……と、まぁ、こんな感じで、その本の中には私にとっての、左利きへ「驚き」しかなかった。


しかし、「驚き」だけでは満足できず、「共感」の方を少しでも味わいたい私は、ついに左手でお箸を持つ練習をはじめてしまった。

普段、ほとんどのメイン動作を右手に任せて、

「自分にはムリムリ~。右手がやってくれるんだし、それでいいじゃん~」

と半ば、ふてくされた様子で怠けている左手に、それはかなりの試練だった。


まず、

「え! ちょっと! 私、左手なんですけどぉ~、お箸持つとか、右手の仕事でしょー?」

と左手から文句がでる。


それでも無理やり持たせようとすると、

「イタイイタイ!」

と、悲鳴があがる。

今まで使った事のないような筋肉が刺激され、つりそうになる。

ついに左手はギブアップして、お箸は右手に持ちかえられる。

そこには、ようやく自分の苦手分野から解放されて、ホッとしたような左手がいる。


そんな、「右手左手お箸劇場」が何日間か繰りひろげられた末に、私は何とか左手でお箸を持ち、ラーメンを食べられるまでになっていた。

ラーメン屋で「私、左利きなんです」と密かにアピールしながら麺をすすっている私。

ちょっと得意げである。

ふと、斜め向かいの席に目がいく。

同じように左利きでラーメンをすすっているハゲたおじさんがいた。

私は気づいてしまう。

いくら練習しても、生粋の左利きのかっこよさには到底かなわないという事に。

そもそも、彼らは、自ら左利きになることを選んで生きているわけではない。

彼らはまだ、この世界が右利きに便利なようにつくられているとは知らない段階で、自らの意思とは関係なく、すでに世界の逆を走り出しているのだ。

彼らは、一体どれだけの細かな戦いを乗り越えながら、この世界で生きてきたのだろう。

それに気づいた私は、ラーメン屋で得意げに麺をすすっている自分が、急に恥ずかしくなってきた。

今からどんなに頑張っても、決して仲間入りすることはできない左手の世界。

中途半端に左手でお箸を持つ練習をしたところで、本当の「共感」など、得られるはずもないのだ。

それは、ちょうど鏡を見ているような感覚に似ている。


鏡の中の逆さまの世界。

限りなくこちらの世界に近いにもかかわらず、角度を変えて、奥の方までじっとのぞきこむ事はできても、決してそこに足を踏み入れる事はできない。

そんな感覚なのだ。

本当の「共感」などできるわけがない。

人の気持ちなんて、どんなに境遇が似ていたとしても、本当に分かるなんて、あり得ないのだ。

右利きの私が、生粋の左利きにはなれないように。

それが心のどこかで分かっているからこそ、私は左利きに敏感なのかもしれない。


それでも、知りたい、分かりたい。

誰かの気持ちに寄り添いたいとき、そっとお箸を左手に持ちかえてみる。

本当の「共感」は、決して手には入らないと分かってはいながらも。

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