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たった5円を使わない解放感

あなたは、いま、解放されたいものはあるだろうか?

子育てでいそがしい毎日?
テスト前の勉強?
住宅ローン?
元彼への未練?
試合前の減量?

どんなものであれ、なにかに縛られた状態からの解放感たるや、たまらないものがある。

徹夜の仕事を終えた、なん時に起きたっていい朝。
なにを食べたっていい、制限のない食事。
あたらしい恋人との、あたらしい時間。
長距離を歩いたあとの、靴をぬぐ瞬間。

たまらない。

解放されるたびに、ひとつの扉が開くような感覚。
そしてまた別のあたらしい扉を開けようと、ドアノブに手をかけるまでの、ひと時。


さまざまな束縛から、解放されては、また縛られて、解放されて。
生きるとは、このくり返しのように思えてならない。

わたしが、いま、解放されたいもの。

それは、なにをかくそう、おかね、である。

おかね、と書くと、とたんに、なにかダークなイメージがするひともいるかもしれない。

「え? もしかして、借金?」
「おかねに、すごく困っているとか?」

いまのところ、めちゃくちゃに困ってはいないが、めちゃくちゃに縛られているのは確かである。

毎月の生活費。
月々のローン。
将来の「かもしれない」のための保険金。
あてにならないと言われながらも支払う年金。

それだけではない。

1円でも安い商品をさがしての買い物。
1円でも高く売れるサイトでの出品。

縛られっぱなしである。

そもそも、おかねに縛られない状態ってどういうことをいうのだろうか。

なにをもって「解放された」といえるのだろうか。


以前のわたしは、「おかねがいくらでもあって、値段のことを一切考えないで買い物ができる状態」
それを、おかねから解放されることだと思っていた。

いまのわたしが、この考えをもう一度ふりかえってみる。

どうも違和感がある。


もちろん、おかねについて考えない状態は、ある意味では、おかねから解放されているといっていい。

それは、もしかしたら、恋愛と似ているのかもしれない。

あんなに好きだったひと。

そんなひとのことも、あたらしい恋人ができれば、もう思い出すこともなくなる。
縛られた状態からの、解放。

そんな状態とおなじ。

別にまちがってはいないような感じもする。
しかし、わきあがる違和感。

おかねとは、なんとも、ふしぎなものだなと、つくづく感じる。


先日、エステにいったときのこと。
もちろん、料金設定はあるのだが、エステを終えた後の、その満足度に、おもわず「もっと支払ってもいい!」そう、思ってしまった。

この感覚は、エステに限らず、食品、旅行、映画、その他、感動したものすべてにおいて同じことがいえるだろう。

こころにわきあがった、感動量によって、支払ってもいいとおもえる金額がかわる。
つまり、ひとによって、おかねが動かされている状態である。

その反対もある。

ここのところ、スーパーでのレジ袋有料化が、一般的になってきている。

反対の声もあるようだが、環境問題のことを考えると、レジ袋だけではなく、お箸やおしぼり、包装紙など、ほかにも適用できるところはするべきだと、わたしは思う。

この有料化によって、レジ袋の消費量がぐんと減ることは明らかである。

たったの5円ながらも、ひとはおかねによって動かされ、結果、地球環境が守られている。

おかねによって、ひとが動かされている現象の一例である。

ひとによって、おかねが動かされている。
おかねによって、ひとが動かされている。

どちらにしても、この場合のおかねの流れには、なんだか「いい感じ」がただよっている。

さらにいうと、この「いい感じ」には、おかねの多い、少ないというのは関係がなさそうである。

どうも、この「いい感じ」に、わたしのかんがえる「おかねからの解放」がひそんでいそうな気がするのだ。


おかねとは、ただ単にモノが買えるというような単純なものではない。

それには、カタチというものがなく、実に自由で、無限の可能性があり、縦横無尽。

息を吹きかけたひとのこころによって、ありとあらゆる姿をみせる。


先日、ひさしぶりにあった友人のひとりが、こんなことをいっていた。

「べつに高給取りではないけれど、自分の給料の、せめて100分の1は募金ができる、そんな自分でいたいんだ」

日本各地で、震災や災害がおこり、遠くはなれた土地からできることといえば、募金。

しかし、自分の生活のことをかんがえると、多額の募金はむずかしい。
そんなふうにとらえて、結局しない、そんなわたしがいた。

そこには、おかねに縛られている、そんな自分が浮びあがる。

しかし、この友人のことばを耳にしてからは、わたしもそういう自分でいようと思った。

100分の1……ではあるけれども、やりたいことをあきらめないで、行動している自分。

そこには、どこかあの「いい感じ」がただよっている。

「おかねがいくらでもあって、値段のことを一切考えないで買い物ができる状態」でも、この「いい感じ」がつくれないわけでは、もちろん、ない。

事実、「おかねがいくらでもある」ひとたちの、多額の募金や寄付が、どれだけたくさんの命を救っているか。

しかし、わたしは、レジ袋の5円を支払わずに買い物がしたい。

自分の給料の100分の1はいくら……という計算だってしたい。

たったの5円を使わない。
たったの100分の1をさしだす。

この行動のさきにある、無限の可能性をかんがえると、なんだかわくわくしてくる。

これが、わたしのなかでの「おかねからの解放」がおこっているときなのかもしれない。


わくわく。
「いい感じ」

どんな使い方なら、わくわくするだろうか。

どんな使い方なら「いい感じ」がするだろうか。

日々つづく、めちゃくちゃな縛りのなかで、いかに「おかねの解放感」を味わえるかどうか。

それは、どうやらおかねの量ではない。
わたしの吹きかける「息」しだいのようである。


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