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『サーミの血』を観た。

スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族サーミ人の少女が主人公の映画。
印象としてはどうにもならない現実を何とか乗り越えて自由に生きようとしてる少女を画面のこちら側からジッと見つめてる感じがある。

主人公の少女、エレ・マリャはスウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族。妹と共にその時期が来たため寄宿舎付きの学校に通うことになる。
その学校はサーミ人の子供のためのものだがサーミ語は禁止され、スウェーデン語を話すよう教育される。
先生は美しいスウェーデン人(多分)の女性教師、厳しくとも優しさも持ち合わせている教師だ。
成績の良いエレ・マリャはこの女性教師に『進学して教師になりたい』と相談するが、教師は『あなたたちの脳は文明に適応できない』と断ってしまう。

学校に来た学者風のスウェーデン人に家畜のような扱いを受け辱められたり、
近所の若者たちにひどい暴行を受けたりとサーミ人というだけでこんなにひどい目に遭うのかと私はすごくショックを受けた。
これが差別なのか。
周りがほとんど日本人という環境で差別を経験したことのない私にとっては、とても衝撃的な光景だった。

結果、完璧ではないだろうが望むものを手に入れ、サーミを捨てたエレ・マリャはサーミ人としての人生を全うした妹の葬式に出席する時、なぜだか俯いてとても自分を恥じているような態度をとっていた。

望みどうり自由に自分の人生を生きてきたのになぜなのだろう。

私は何となく分かるような気がした。

東北の小さな町で育った私は、いつでもここから逃げ出してやると思ってた。
テレビや雑誌で見る華やかな都会、あらゆる可能性が詰まっている魔法の街のように思ってた。
山形の短大を出て少し経ってから諦めきれず東京にでることにした。
仕事の面接のために初めて乗った丸の内線にすごく興奮したのを覚えている。
面接は成功し、私は東京で生活することになった。
家賃5万円の1Kの畳の部屋。洗濯機は外のベランダに置いた。
ひとりで始めた憧れの都会ぐらしだったが、思っていたより華やかなものではなかった。
印刷系の会社には定時という概念はなく、残業続きの毎日に心と体が疲弊していった。
頼れる親戚もいず、何でも話せる友達もいず、
休みといえばひとりで繁華街に出てぶらつくだけ、どんどん心が死んでいった。
時々、東京出身や近隣の県の出身の人達と知り合うと、なぜだか自分が負けてるような気がした。
頑張って生きてるのに、誰にも迷惑はかけていないはずなのに。
ここで生まれてない、育っていないということに引目を感じていた。
逆に、たまに地元に帰るととても安心したし、見えない何かに守られてるような気がした。
地方出身者の方々が、みんな同じ気持ちだとは限らないだろう。

あなたはどうですか?

エレ・マリャの都会やスウェーデン人への憧れ。
それは私がかつて抱いた都会への憧れと同じものだったのだろうか?

生まれた土地に根付き、そこで生活する人々には、
言葉では言い表せない力強さと尊さがあるように思える。
外に憧れ、外で生きてきた私にはそう見えてしまう。

違ってるかな?

その土地の人間でもあるのに、外の人間。
その中途半端さが私を俯かせる。
でも、もうそれを抱えて生きて行くしかないんだよ。

エレ・マリャの心を現すかのようにサーミの場面は薄暗かった。
スウェーデン人との生活の場面は明るかった。

何が正解かは誰にもわからない。
それでも進んでしまったら自分の人生を全うするために歩いていかなければならないんだろう。

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2016年製作
監督:アマンダ・シェーネル (監督のお父さんはサーミ人でお母さんはスウェーデン人)
主演はノルウェーでトナカイを飼い暮らしているサーミ人のレーネ=セシリア・スパクロク。
2016年 第29回東京国際映画祭で審査員特別賞と最優秀女優賞を受賞した。
『サーミの血』で検索すると監督のアマンダさんのインタビュー記事が出てきますので、ご興味のある方は是非。

サーミ人
wikiに詳しく書かれていますのでそちらをご覧いただく方がいいのですが、簡単にご紹介をしますと、
スカンジナビア半島北部ラップランド及びロシア北部コラ半島に居住する先住民族。ラップランド人と呼ぶ人もいるが、ラップランドとは辺境の地を呼んだ蔑称とのことです。アイヌ民族とも交流があります。元々は狩猟・遊牧を営む民族だったが、チェルノブイリ原発事故以降、伝統的な放牧生活を営むのは難しくなり、ほとんどのサーミ人が定住生活を営んでいるそうです。


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