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兵庫ひとり旅① 阪神間モダニズムとファミリーヒストリー

2024年9月8日。
旅行記というよりも私の曽祖父の事を聞きに行った内容。
旅行記は②の方で。

8月29日にたまたま「大阪中央公会堂」の事を検索してる途中である文字が目に留まりました。

「岩本房吉という人を知っていますか?」

会った事は無いんですけど、その名前は良く知っています。
母方の祖母の父。曽祖父に当たります。

祖母が夙川に住んでいて、その場所は大学に今はなっている…そんな話を子供の頃から聞いていました。
昔は証券の会社を経営していて、良い暮らしをしていたというような話もあり、最初に書いた「大阪中央公会堂」を作る時に多額の出資をした岩本栄之助という人は親戚に当たるとも聞いていました。

でも、今はお金持ちの見る影もありません。
遠い昔の夢物語みたいな感じです。

岩本栄之助は知られていても房吉っ誰???が世間の評価ですしね。

私が検索していてたまたま見つけたのは↓

↓の内容の公開講座です。

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岩本房吉という方を知っていますか?-茶室「竹立庵」を巡る阪神モダニズムの痕跡-

大手前大学構内に移築現存している茶室は、中之島公会堂建設のために寄付をした相場師岩本栄之助が建設したという伝承があります。大手前女子大学の寮「修学館」として1992年(平成4年)まで使用されてきた和風邸宅に付随していた茶室の調査から岩本房吉という人物が浮かび上がりました。また隣接している聖ペテロ協会の調査から、阪神間モダニズムの風が吹き抜ける中で岩本房吉が生きぬき演じてきた大阪、池田、夙川という三拠点での生活が浮かび上がってきました。岩本房吉及び岩本栄之助との関係を探り、茶室「竹立庵」の現代的意義を考えます。
*****

私が見た時点で受付は締め切られていました。
ダメ元で「岩本房吉は曽祖父に当たる事を伝え、キャンセルがあったら受講できないか?」という趣旨のメールを入れてみた所、事務局の方から「ぜひ参加して下さい」とお返事をいただきました。
本当に感謝感謝です。

そんな訳で生まれて初めて祖母が生活した夙川へとやって来ました。

JRさくら夙川駅から歩くこと、約10分。

大手前大学へとやって来ました。
案内にしたがい会場へ行き受付で名前を告げて、無理を言ったお詫びとお礼を言い、4階へ。
そこで、事務局の方に声を掛けられ、今回講演をされる 伊熊昌治先生と高木恭子先生 をご紹介いただきます。

ここからは講演の内容を。
①阪神間モダニズムとの関係
②大手前大学に現存する茶室「竹立庵」とは
③「竹立庵」は誰が作ったのか?
④大手前大学やその他に伝承されている「岩本栄之助」との関係は?
⑤調査の中で浮かび上がって来た「岩本房吉」とは
これが話の軸となっていました。

講演中は撮影禁止なので、始まる前に撮ったもの。

公開講座の共通テーマは「阪神間100年の歴史」。
伊熊先生は建築が専門の方です。

前提として「阪神間モダニズム」という物があります。
「阪神間モダニズム」
初めて聞いた言葉でした。関西の方は歴史で習ったりするのでしょうか?
大正から昭和初期にかけて大阪市と神戸市の間(阪神間)を中心に近代的な文化、芸術、生活様式が生まれたというもの。
西洋風の建物が出来たり、富裕層向けの娯楽の場が出来たり、高級住宅地が出来たり、別荘が出来たり。
鉄道会社も積極的に開発を行ったようで、今の神戸市の発展にも繋がって行くみたいです。
詳しくは↓

先生が最初に注目されたのが「竹立庵」という大手前大学アートセンターの敷地内にある茶室です。

アートセンターは1992年安藤忠雄氏設計の建物です。

アートセンター建設時に敷地内にあった茶室「竹立庵」を今の位置に移設し、耐震化など要所要所を新しいものに替えてあるそうです。

「竹立庵」は茶室としては京都 久田家の「半床庵」と良く似ており、ほぼ模写と言って良い程だとか。
久田家は表千家の由緒ある家柄。
間取り等はそっくりです。
何故、「半床庵」を模倣したのかは不明で調査中との事でした。

この「竹立庵」は一体誰が作ったのでしょうか?
大手前大学や安藤忠雄氏のコメント、また、近接するぺテロ教会には「岩本栄之助の邸宅があった」と伝承されていると記載されています。

「岩本栄之助」は戦前の大阪の両替商。1907年の大暴落の際に全財産を投じて危機から脱出させたり、渋沢栄一と渡米していたり、私財を大阪市に寄付して大阪中央公会堂の建設に貢献した、英雄っぽい人なんです。(かなりざっくり)

講演タイトルは岩本房吉。
曽祖父の房吉は栄之助の父親が起業した「岩本商店」に10歳で丁稚に入り、栄之助はその「岩本商店」を継いだ人。
栄之助より10歳程年上の従兄弟であり、仕事上では補佐役だったみたいです。

「竹立庵」を含むアートセンターの場所に本当に栄之助が住んでいたのか?…という事で土地台帳を調べたんだそうです。

すると、そこに栄之助の名前はなく「岩本信一郎」という人が購入していました。
この人は房吉の長男。私の祖母の兄に当たります。

栄之助、房吉、信一郎…それぞれが所有していた場所をかなりしっかりと調べられていました。

大阪証券取引所に近い北浜界隈に家があり(栄之助は存命中はこの界隈のみ)、池田室町(大阪、池田駅すぐ)、西宮郷免町(大手前大学のところ)とに家を所有していた形跡がありました。

池田室町は1910年頃に箕面有馬電気鉄道(今の阪急)が開発された際に分譲住宅として宅地開発されました。

その中の

赤い所に家族で土地を所有して住んでいたようです。
母も「戦前に池田に預けられてた事がある」と言っていたので住んでいたのは事実のようです。
こちらの池田にも「栄之助伝説?」があります。
伏尾温泉という所にある「不死王閣」というスーパー銭湯?のHPに「池田駅前にあった岩本栄之助の別邸を譲り受け移築」と書いてあります。

動画の最初に出て来ます。

恐らくこの家に住んでいたようです。

西宮郷免町の方はと言うと大きな和邸宅とスペイン風の建物があったんだとか。
スペイン風の建物は「六梧荘」という娯楽用に建てられたもので、中にはビリヤード場を中心に談話室や読書室があったんだとか。
恐らく人を招いて(商談も兼ねて?)使っていたのでしょう。

昭和12年の房吉の年賀状(オークションにある)には西宮市森具とあるのですが、これは郷免町の旧地名となるんだそうです。

現在、アートセンターの敷地には「竹立庵」と門や石垣が残っています。

竹立庵

そんな訳で、私の曾祖父は大阪北浜で商売をし、池田と夙川に住んでいた事がわかりました。
しかも、驚く程のお金持ち!
阪神間モダニズムの大阪で仕事を神戸に住むに正に合致しているような感じがします。

ただ、人間としての魅力や功績は従兄弟の栄之助にあったため、どの場所も「栄之助伝説」に塗り変わっているみたいでした。
(このまま「栄之助」の方が良いのかもですね。)

「竹立庵」を作ったのが房吉なのかは不明ですが、国の有形文化財に登録出来ないか…と先生方は動いているそうです。
そのためには情報が少なく、情報提供を求めているとの事でした。

何かご存知の方は大手前大学の高木教授にご連絡下さい。

最後に

大阪万博に行った時の写真。
1番右端が私、4番目が祖母。この時は神戸の祖母の姉妹の家にお世話になりました。
タイムスリップ出来るなら、どんな暮らしをしていたのか聞いてみたいです。
私の隣が父、左から2番目が母。
普通のサラリーマン家庭で

東京都小平市の小さな家で育ちました。
「竹立庵」が2つくらいの広さかな。

栄枯盛衰。そんなファミリーヒストリーでした。

最後に伊熊先生、高木先生、大手前大学の事務局の皆さん、この度は本当にありがとうございました。

追記(実家にあった写真を追加します。)

曽祖父 房吉
母と従姉弟、母の兄弟
六梧荘
六梧荘


祖父母の結婚式

おしまい。

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