『月を見ていた』の感想
語りたいから勝手に語る。米津玄師さんの『月を見ていた』について。
私の間違いでなければこの曲は初の超横長のPV(パソコンだと)だ。私は真っ先にこれに「うわ」となった。
何故かと言うとブラウン管テレビから薄型テレビになった時、あれは映画館のスクリーンを模倣していると知っていたからだ。そして映画館のスクリーンが横長なのは、人の視界には限界があり、一定の横幅になるとそれ以外が脳から除外される。要するに集中状態に陥る。
ストーリー性の高い歌詞でこの横長スクリーンを持って来た、そこに米津さんのこだわりを見た気がした。これは単なる曲なのではなく、ドラマであり映画、なんならオペラとして楽しめと言われた気がしたのである。生憎ゲーム音痴な私はFFをやっていないけれど、それでも胸に訴えかけて来るものがある。
決して結ばれない二人の恋で、けれどそれは悲しいだけじゃない。出逢えたこと自体が最高の幸福であり、別れることになっても魂が離れることはない。どれだけの長い時間離れ離れでも必ず巡り合う、その期待と希望と、ほんの少し離別に軋む想い。再会した時には笑顔でいたい願いを感じられた。
なのに共に生きて来た時間は瞬きの間でしかないのを判っている、切なくて苦しくて幸せなラブソングだ。愛してるなんて一言も書かれてないのは、そんなもん要らねえからである。愛だの恋だの言葉にした途端、陳腐でありふれて『日常的』なものにランクダウンしてしまう。一生一度の恋をそんな陳腐なものにしてたまるか、運命の出会いってのはそんな容易いもんじゃねえんだって気概が伺える。最高。陳腐に愛だの恋だの言葉にするにはまだ早い、そういう二人なのだと思った。
そしてこれは私のオカルトファンタジーヲタクとしての蘊蓄がドッカンと火を噴くが、『柳』。これ。このチョイス持ってくるかーー!?ってなった。初手で二人が見詰め合う世界観、大変申し訳ないけど中華的な世界でよろしいか?よろしい、先を進めるとしよう。
で、その中華的な世界では柳の葉で円環を作るってことがある。丸く丸く柳の葉で円環を作り、旅を続ける人に「無事帰り来たれ」との願いを込めて。
これがまた「巡り合い」に一役買っているわけだ。例え命を落としても、今生では結ばれなくとも、無事私の(俺の)元に帰り来たれと願いを託す。次の時代で、或いは次の次の時代でもいいから、どうか自分の元に無事帰り来たれと願いを託している。それを匂わす『柳』。
ヴァーーーーーーーーーーーー!!!!
死んじゃうよ!!
こんな切ない世界観死んじゃう!!
別れを前提にしての願いなんだよ!!
別れなきゃ結ばれない、それが前提の世界!!
敵とか味方とか時代とか人種とか本来はそっちのが大きな問題なのに、この曲の世界にいる二人にとってはちっさいこと!!自分の名を呼んでくれた人にもう一度名を呼ばれたい、願ったのはささやかなのに極大極限の想い!!
死んじゃうだろこんなん!!
諦観だけでは済まされない、互いに別れに対して互いへ「悲しまないで」と思いやれている!!運命の出逢いが間違っていたとしても、自分の置かれた立場的に正しい行いではなかったとしても、ロミジュリは最高だってシェイクスピア先生が言ってんだから間違いねえ!!
ドラマだし映画だしオペラなんだよこれは!!
っていう感情で涙腺決壊するほど泣いた。
これ男性側の視点で男性の気持ち・感情としてPVを見ていたんだけど、だからこそ「名前を呼んで、もう一度だけ。優しく包むそのやわい声で」が切実……!!
それ以外望むことはもうなにもないから感すごい。
もうね、ある?
そんなことある??ってぐらいの感情。
それだけ惚れ込んでいる相手に望むのが『名を呼ばれること』なんだよ。ささやか過ぎんだろやめてよそういうの。なんぼでも呼んだるからもっと我儘言えってなるわ。なんなの米津、ヲタクの情緒粉砕するのが趣味かえ?
次回から米津さん、『趣味・特技』の欄に『ヲタクの情緒を粉砕すること』って書いてもみんな否定しないよ。ソウダネってなるよ。
僕らのヒーローアカデミアの『ピースサイン』もアンナチュラルの『lemon』もMIU404の『感電』も、リコカツの『ペイルブルー』もシン・ウルトラマンの『M八七』でも情緒粉砕したよね。爆発四散だよ。
令和の男版Coccoかな??ってぐらい針の隙間を縫うようなツボ刺して来るね!?ヲタクの情緒は常に不安定だから手心加えて頂きたい。
そうだよヲタクは常に情緒不安定だよ。安定してる時あんのかってぐらいなの。けど爆発四散したおのれの情緒見て「たーのしー!!」ってなる生き物だから仕方ないよねどうかそのままでいてください(五体投地)。
本当に聞けば聞くほど『月を見ていた』の世界観で泣いてしまうので、軽率に情緒粉砕したい時は聞くことにする。
あ~なんか感情がニュートラルに入って創作意欲が沸かねえな~ってヲタクにオススメ。推しをその世界観にぶち込んでみると泣ける。
その時推しをその世界観の主人公にするか、或いは見守る第三者にするか、それとも離れ離れになった二人を巡り合わせる超存在にするか、それはそれで楽しめると思う。
私は取り敢えず三種類全部で書いてみたくなった。
主観・客観・超客観の三種類書きたくなる曲って初めてかも知れない。
米津玄師さんが存在する世界に生きていられることに感謝。