閉鎖的環境と醜悪な人間

昨日もまた、例のごとく話題のことについて会見があった。
そこで世間を賑わせたのが、左翼系記者のルールを逸脱した質問のやり方だったそうだ。
この主たる原因について、私は彼らの職場における閉鎖的環境について問題があるため、醜悪な人間が生まれてしまったと考えている。


まず職場における閉鎖的環境を定義すると、「今の仕事について、勤続年数が長く、他の業界を知らない、もしくは以前の勤務期間が~3年程度と短く、同業他社も同様の環境が与えられているため、自浄作用が働きにくい」とする。

例えば今回の(新聞やネットなどの)記者について考えてみる。
今回、話題の記者は大卒後から、ずっと記者一本で部局内の異動は当然あるものの、他の業界は残念ながら取材という自らの目線で見聞きしている可能性は残しつつも、それを自身に役立てるという動きは考えにくいと思われる。

また、公務員も同様である。
特定の誰を示す訳では無いが、ほとんどの場合は終生、一部例外として数年間、民間に勤務してからというパターンもあるが、勤続年数が短ければ通常の公務員と同様になり、勤続年数が長く、専門的知識を持っているという人物は、概ね任期付職員として首長の権限で採用となるような様子がある。


これが高い独立性を維持している、という反論も考えられる。安易に外部からの意見を取り入れることなく斟酌している、ということであればこれは称賛されるべきことだろう。
しかし、自分たちのことは棚に上げて、変わろうとする様子がないことが、自浄作用が働きにくいとしている部分であり、最大の問題である。

結果として、さも一般社会の代表のように振る舞うが、それが社内外で不評であったり、彼らの最大の仕事である重要な情報を引き出すという観点で、大きなミスやトラブルを生み続けたりすれば、その地位をいつでも奪われかねない不安定な状況にいることで、その保身のため、あたかも自分が特権を有しているかのように振る舞うことで、上下関係のように相対的な立場を作り上げ有利に事を運ぶように仕向けるなど、といった醜悪な人間が誕生してしまう。

これは奇しくも、ジャニー喜多川氏について書いたマスマニピュレーションの方法に一致している。


では、どのように対策していくことが良いのだろうか。
私は外部から指摘することができる、完全に独立したつまり、その業界の人間で一切構成されていない第三者機関によって一定程度のコントロールがなされるべきであろうと考える。

ただし、これはこと記者について言えば、言論思想の自由に対して何ら反するものではないということを確立しなければならないわけで、簡単なようで難しい要素である。

また、業界の長年の慣習も検討しなくてはならない。長年がどの程度を指し示すかは分からないが、たかだか数十年、数百年続いているからと言って変わらない、変えることができないというのは、気持ちとしてわかるが、永続的な組織体を目指すのであればどこかで変化する必要がある。
そうでなければ、自然淘汰されるだろう。


なおここまで閉鎖的環境が醜悪な人間を生むということについて論じてきたが、今回話題の記者は、そもそも醜悪な人間なのかということについて、考えたい。
少なくとも私とは言論思想の面で今のところ一致するところを見出すことはできないし、所々のメディアで公開されている行動や行為を見る限り、それらは容認できない事のほうが圧倒的に多い。

しかし、それはあくまで言論や思想の面(および、それによる一連の行動)で一致を見出さないだけであり、決して個人攻撃ではない。予定調和の行動が、必ずしも良い結果を産まないということも理解できるのだ。
ただし、その矛先が自分に向かってきたとき、同じことをされるのだということを肝に銘じ、行動をより高いレベルに昇華すべきではないだろうか。

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Araki Shit on a Street
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