東南アジア放浪記-フィリピン過去編 ②
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フィリピン過去編②-現地での滞在生活とバジャウ族(マツダヒロム)との出会い
こちらはフィリピン過去編シリーズ第二弾
遡る事
2020/3/14
オーストラリアでの海外初1人旅を経て、なんとか無事縁のあるフィリピンセブへ
パンデミックの中、オーストラリアからの入国が出来たおれはその後
規制に右往左往しながら徒歩4時間ぐらいかけて全ての荷物を背負い、街越えに失敗したり。。。
※当時は市と市の移動もガッチガチに規制され、タクシーもバスも走っておらず夜は誰もいない大通りを軍団が見回りしているそんな状態だった。
パンデミックの規制に振り回されながらも
様々なヒトの助けがあり、バックパッカー宿やゲストハウスを転々と不便ながらも楽しく暮らしていた。
もちろん大変なコトも、人に迷惑をかけたことも、辛いコトもたくさんあった。
だけど不思議と、あんまり覚えてない。。
ヒトの記憶とは本当に都合よく出来てるもんだな。
そーいえば、当時数少ない生き残り(現地滞在)の友達と一度フライトを取ってManila経由での帰国をトライしたけど
※調べたら2020/6/15だった。
Cebu to Manilaは乗れたのだが、Manila to Narita
が欠航?というか便がマニラの空港到着時にはもう既に存在しなかった、、
もちろん払い戻しなし、、当時は色んな航空会社にキレてたけど、みんな大変だったんだろうなぁ。笑
しかもパンデミックでほとんどの行政機関が停止してて、出国に必要な紙?みたいなモノをギリギリバランガイ(市役所的なヤツ)で受け取って
めちゃくちゃ数少ない闇タクシーをなんとか捕まえて空港にいったなぁ。
当時はチャーター便は定期的に飛んでいたんだけど、通常便は欠航マミレ。
チャーター便の場合片道10万円以上と、おれからしたら超高額、、
※日本⇔フィリピンは安いチケットなら1.5万円ぐらいからある。
フィリピンはまだ日本に近いからマシで、アフリカやカナダからのチャーターは40万円〜とかとんでもない値段だったと後に誰かから聞いたっけな。
そんなこんなで本格的に帰るコトを諦めたおれは、留学中に出会っていたバジャウ族に暮らす日本人
マツダヒロムと過ごす様になる。
出会いは一方的におれが知ってるだけだったんだけど、パンデミック以前にセブのナイトマーケットでたまたま隣の席になり
声を掛けてみると拍子抜けするぐらい、ゆるいオトコだった。笑
パンデミックの中、お互いに遊ぶ友達も帰国してしまい
必然的に同じ様なメンバーで過ごす様になっていった。
同時になんとか外出ができる様に緩和され、行動範囲も広がってきた。
※マツダヒロムについてはググればきっとたくさん記事が出てくるよ。
きっとこの文書を読んでくれてるみんなは好きになれると思う。よかったらこれ見て。
当時、2020年ごろのおれの価値観では
汚ねぇ
臭い
貧乏
物乞い
根はいい奴らかもしらんが、関わる必要はこれと言ってない
東南アジアのよく見るスラムの住民
という印象をバジャウに持っていた。
ある意味、こんなところで生まれ育って可哀想だな。
運がなかったな。
という率直な感想のみで、コミュニティ内でもヒロムといる事で直接的に問題が降りかかることもなく
ある種、特別なコミュニティに入り込めてネガティヴイメージよりも目の前が楽しかった。
ヒロムに関しては
なんか少年とおじいちゃんの両方の性質を持ったヤツだな(変わり者)
と『当時はまだ彼の事や、バジャウ族の事を深く理解していなかった。』
※バジャウ族についてはまた別記事で詳しくお話ししよう。
バジャウと一緒に行く海の冒険
YouTube撮影
マングローブ郡のツリーハウスに滞在
とにかく毎日が楽しくワクワクして
※国境封鎖の為、観光客も居ないから海は貸切
バジャウ族の船長デンシューと共に
フィリピンの大自然をおもいっきり楽しんだ。
当時の思い出は、死ぬ時にも走馬灯として出番があるだろうと思えるぐらい
濃い日々を過ごしていた。
⚪︎ツリーハウスにペヤング(ロットワイラー)とヨコヅナ(シベリアンハスキー)を連れて泊まりに行ったコト。
⚪︎満月の日に大量のウニを獲りに行ったコト。
⚪︎ヒルトゥガン島のラスタハウスに住む、片腕オジサンの家に行ったコト。
⚪︎ヒロムの家で夜中にオーダーして食べるビックマック。
※実はバジャウ族の集落はフツーに街中にある。
徒歩10分ぐらいでイオンみたいなショッピングモールもあるよ。
そんな生活の中、ヒロムの元にとある情報が舞い込んでくる。
フィリピンで『アヤワスカ』が受けられる
シャーマンとのコンタクトが繋がった。
フィリピン過去編③-バジャウで見つけた新たな扉 アヤワスカとの出会い
へ続く