ホニャララLIVE #011 松本紹圭(僧侶)
松本紹圭さんにお越しいただいた11回目のキーワードはPost-religion。なかなかに刺激的なテーマだ。religionは宗教を意味する単語。Post-religionとはつまり、脱宗教とか、あるいは宗教の未来とかそういったニュアンスを持った言葉だと考える。
Postを知るには、現在地点をただしく理解する必要がある。そのあたりを紹圭さんご自身の経歴なども踏まえてお話しいただくことから始めた。
いわくブッダは「唯一の正しさへの依存心からの脱却」を説いたのだという。これとは逆に現代の宗教は依存や執着を生んでいるのが現状であり、行き過ぎた事例がカルトだとも言える。
紹圭さんはこの依存状態を指して"religiousな"状態と称しており、その状態からの脱却を目指す、つまり自立した状態であることがPost-religionということにもなる。とーっても興味深い。
そうは言っても人は皆、何かに依存して生きている。依存を断つということは容易なことではない。ではどうするかと言えば、依存先を増やすのだと言う。1つに100%依存している状態がカルトなのであって、この依存先を分散させれば良いと言うわけだ。なるほど、これならできそうだ。
僕は本を読むときにに、1つのテーマの下で複数冊の本を読むように心がけている。何かを知ろうと思ったときに、1冊の本だけを頼りにすると誤った認識をうむ場合がある。複数読むことで、正否ではなく、自分の見解というものを導き出せると思っているのだが、このことと、上記した多依存と言う考え方は合致する部分がある。
紹圭さんが実践されている、Post-religionを実現するためのプラクティスはいくつかあるのだけど、代表的なものの一つが「掃除」。仏教の世界でPost-religionと言ってもマインドでは理解しても、宗派の壁が実践を遮るのだそうだ。宗派によってお経から作法から色々異なるのだけど、そう言った違いが全くないのが「掃除」であり、もっと言えば、世界の宗教をみても掃除はポジティブに受け入れられる。
医師の稲葉俊郎さんが『ハーバー・ビジネス・オンライン』に寄稿をされており、ウィスルに対する見解を示されている。ユングや河合隼雄を引用しながら、宗教の語源であるラテン語のreligioは、本来「慎重なる観察」と言う意味があり、観察者として外から眺めるだけではなく、体験しながら観察することの重要性を説いている。
宗教での観察は「体験者として観察する」立場だったはずだ。それがいつしか宗教の内側では「体験」のみが強調され、外側では傍観者のごとく「観察」するのみになってしまった。掃除を通じてこの内と外を再接続しようしているのが、松本紹圭さんの試みなのかもしれないなんて思ったりもします。
しかし紹圭さんのお話しは聞き入ってしまう。Yujiさんもいつになく静かに聴いていたような印象が残っています。
2020年6月20日
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