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QUANTUM GIFT 4.27.2021

セラピストのOCOさんと、月曜日の朝にお話をします。大きなテーマは「感覚をひらく」ということ。アーカイブは残しません。その時、その場の空気感を尊重します。アーカイブは自分の記録であると同時に、未来で誰かに出会うためのツールです。ですから、アーカイブの代わりに僕のテキストによる記録をつけることにしました。

4月27日(火) 8:15

最近、アート鑑賞を通じて久しぶりに感動を覚えた。これは個人的な感覚だが、感動とは、作家の作品制作における情動の追体験なのかもしれないと感じた。まさに心が動くという感覚だ。

OCOさんはリハビリテーションの現場に置いて、なんらかの障害を持った人がその障害を認め、受容し、昨日再建に向かうその過程の中にアート鑑賞で感じる感動に似たものを感じたことがあるそうだ。

artの語源はラテン語のarsであり、これは現在のアートよりも広範な意味を持っている。技術や人工的なもの全般をさし、医療的な意味合いも含まれる。医療の現場にいたOCOさんが、その中でアートを見出したのは自然な流れだったのかもしれない。

書道や華道などはアートの文脈で語られることは少ない。アートは西洋的な概念だ。僕たちの身体感覚からすると、書道などがそうであるように、アート(仮)に向き合う時間が本質的な体験だとも言えるのかもしれない。いけられた花を愛でるのではなく、花をいけるその時間にこそ本質がある。

他方、ジェームズ・タレルの作品の一つ「光の館」などは光という自然現象そのものを体験する作品だ。だからと言って大自然はそのままアートか問われれば違うと考える。やはり人が介在することでアートは成立するのだろう。「光の館」は人が成したものだ。いや、自然とは人間をも含んだ概念であることは忘れてはならない。人もまた自然の一部である。

呼吸とは体内に存在する3つの空洞を使うことで行われる。口を閉じ、空洞の中に新鮮な空気を送り込むことは、自分が自然の大きな循環の中に置かれていることを再確認するようでもある。

誰がいったか、心臓、心を指すHEARTの中央にはARTがある。ARTは心で体験するものなのかもしれない。胸に新鮮な空気を送り込んで目の前の作品と対峙する時間は、自らが制作を行うのに等しい体験を与えてくれるのだろう。

しかしアートの話をすると取り止めのない話になりがちだ。

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