待つことは自分を信じ愛すること
QUANTUM GIFT
Therapist OCOさんと、月曜日の朝、8時15分くらいから対話をします。大きなテーマは「感覚をひらく」ということ。
アーカイブは残しません。その時、その場の空気感を尊重します。アーカイブは自分の記録であると同時に、未来で誰かに出会うためのツールです。ですから、アーカイブの代わりに僕のテキストによる記録をつけることにしました。
6.14.2021
先週はお休みをしてしまったので、1週ぶりのQUANTUM GIFT。この2週間での出来事をお話しすることから始めました。
一つは知人に呼び出された話。この方とは進行中の仕事があり、彼からの原稿が上がってくるのを待っている状態。ところがなかなか上がってこない。すると「原稿を書く間、隣で過ごしてほしい」という申し出がありました。
「早く原稿を書いてください!」と叱咤激励するでもなく、ただ隣にいて欲しいといいます。僕は僕自身の仕事をしていればそれで良いというわけです。不思議な申し出ですが、なんとなくわからなくもないです。カフェで仕事をしたり、図書館で勉強をしたりする感覚に近いものがあるかもしれません。
同じことをしているわけでなくとも、仕事や研究など似たベクトルを持った人が近くにいると、それに触発されるような感覚は誰しも思い当たる節はあると思います。今回はそれを頼まれたというわけです。
余談ですが僕はアートを学ぶ大学にいましたが、研究室の様子はまさにそんな空間だったように思います。あの刺激と心地の良さが入り混じる空間は、は僕にはちょうど良いものでした。
またこの2週間の間には、別の似たような出来事もありました。すでにnoteに書きましたが、知人が経営する保育園での出来事と、先生のその対応のお話しを聞いたり。
さて、この二つの出来事に共通するのは、「ただ、ともにいる」ことの意義でしたが、視点を自分ではなく相手に置き換えて、相手からみた「そこにいてくれる人」の存在を考えると、その意義は「待つこと」にあるのかもしれません。
原稿が上がってくることを信じて待つ。子どもが本心を自ら語ってくれるだろうと思い、問い詰めずに待つ。
カフェで仕事をしていて、隣の席にいる他人は「私」の仕事(活動)に干渉することはありません。その距離感がちょうど良いということなのだろうと思います。バイブスの共振もあるかな?
OCOさん曰く、「待つこと」は高次脳機能の一つであり、同時に「相手を信じる、自分を信じる」ということでもあると言います。これは相手がいなくとも、つまり自分一人のシーンでも言い換えることができます。
やりたいことがあるのになかなか出来ない時などは、自分を信じて待つことも無意味なことではありません。待つという行為が信じることであれば、それは安心感を与えるものでもあるわけです。待つことで自分が安心して、活動のフィールドを得ることができるのかもしれません。
同時に、なかなか出来ない時には、「もう十分に待ったのではないか?」という問いを自分に立ててみるのも一興です。
「あなたはもう十分に待った」
「もうやって良いのではないか?」とね。
もしすでにずーっと待っていることを認識できれば、自分で自分の背中を押してあげることができるかもしれません。準備は整っているわけですから。
喫煙者があるとき、ピタリと喫煙をやめるというケースがあります。僕も数年前に経験していますが、喫煙者って案外「いつかはやめる」「タバコやめたい」という想いを抱えながら喫煙しているというケースが少なくない(僕はそうだった)と思います。つまり無自覚ながら「ずっと待っている」状態でもあり、突然やめるということをしているようで、十分に時間をかけた(僕ね…)とも言えるわけです。
OCOさんは対話の中で「自分にやらせてあげる」という表現を用いました。「やるんだ!」と意気込むのではなく、自分のことを少し客観的に捉えて、「自分にやらせてあげる」くらいの感覚で向き合うことが大切なのかもしれません。自分のことを愛するということは、この感覚に近いのかもしれない。
逆に「やれない、出来ない」という思いが強いのであれば、今は少し待ってみる、ということも肯定的に捉えてみてはどうでしょう?待つことは信じることです。やる気が出るのを待っている間に、1日が過ぎてしまったと嘆くのではなく、休息が必要だったとか、準備の時間だったのだと。
碇シンジくんは「逃げちゃダメだ!」と連呼して自分を鼓舞しましたが、僕たちは「信じて待つ、ずっと待っていたならきっとできる」くらいの感覚で良いのかも。もちろん、使徒襲来の際には逃げちゃダメだけど。