「全てに意味がないからこそ、逆に全てに意味づけをできる」
昨日から「奇跡のコース」を自分なりにやってみている。
初日は、
「私がみているものには、何一つ意味がありません」
というものなのだけれども、
昨日はまだ鬱々した気分が晴れずに無気力と苦しみの中だったんだけれども、起きて顔を洗いながらこのレッスンをしてみた。
すると笑えてしまってね。
だって意味ないのに一生懸命顔に保湿液つけたりさ。
あ〜〜、こうやって一生懸命
「人間という役」を
「私という役」を
「皮膚のためにはこれが必要」と思い込んで、
「生きていくためには◯◯が必要」と思い込んで、
ゲームをしているんだな。
ってほんの一瞬感じたから。
この感じ方はなにも今回が初めてではなくて、鬱々とした状態に入り込んでいない時、つまり、ハートとつながった感じがして暖かくて至福を感じて軽やかでいられる時は、わりかしその視点を持つことができた。
この視点を持つことができることを知っていても、鬱々無気力イヤイヤモードに入ると、その視点を感じるポイントにいけないから不思議だ。
夏至前くらいから感じていた鬱々無気力イヤイヤ苦しいモードはまだ続いていて、上記のふっとした「隙間」を感じても、それも一瞬で、昨日はまたもやほぼ終日鬱々無気力イヤイヤ苦しいモードであった。
そしてこの苦しみは、私の場合は「外側だけ」に影響されているわけではないようなのだ。確かに、お金がないとか”外側”のことで不安になったりすることもある。でも、その外側の状態は何一つ変わっていないのに、至福モードになったり、苦しみモードになったりするのだ。
そして全ての外側は内側の反映というから・・・まあ、内側ありきなんだよねえ。
今まで、「全てに意味がないからこそ、逆に全てに意味づけをできる」というスタンスでいたから、久しぶりに「全てに意味はない」という、体もふくめ全てにおいてみているものに力を与えない練習は新鮮であったし、そうだった、そうだった!という感じもした。
そうして、2日目の今日のレッスンは、
「私は見るもの全てに、自分にとっての意味を与えています」
あぁ、まさにそうだそうだ、と朝からこれをぶつぶつ呟きながら、そして、昨日のレッスンのフレーズも思い出しながらお弁当を作っていたら昨日までよりはかなり浮上してきた自分がいました。
といっても、きっと、地獄の炎の海から助けを求める亡者のような「ぐるじぃ〜〜〜」といった感じは、子供のころから感じていたし、きっとこれからも一緒なのかもしれない・・・・
だからこそ、これからの人生の自分ために、どのようにしたかを記載しようと思うのだ。
今までは、ほんとどうにかもがきながらもやりすごした・・・という感じだったけれども。そして今回もそうなのかもしれないけれども。