全ては内側の内側と、思いは似て非なるものだった。

「これらの思いには、何の意味も持っていません。それは、(この部屋に、窓の外に)私が見ているものと同じです」

『奇跡のコース』4日目。

そっか!そうだったのか?!いや、そうだったよな・・・・となった。

「全ては内側」

これはもう長いこと思っていたから。
でも、よくよく思うと、「内側」であっても、ハートの感覚であって考えたりする頭のことではないんだよね。
思考が強い性質だからか、分かったつもりになってもいつの間にか思考にひっぱられているんだなあ。
内側のモノだと思い込んでいたものが、いつの間にやら思考にのっとられていた、みたいな。

だからこそ。
今日のレッスンを最初に見た時、「え?そうだっけ??なんだ、それなら楽になるじゃん。あ、でもそうだったかも・・・・」っとなったんだなあ。

自分はダメだという私の思いには何の意味もありません。
相手についての私の不満の思いには何の意味もありません。
相手についての私の感謝の思いには何の意味もありません。
猫についての私の思いには何の意味もありません。
なんか順調だなっという私の思いには何の意味もありません。
こうするべきだという私の思いには何の意味もありません。
得をしたという私の思いには何の意味もありません。
ちゃんとしていなくてはダメだという私の思いには何の意味もありません。
唯一の正解として存在しないとダメだという私の思いには何の意味もありません。

”マイナス”なことだけではなく、”プラス”と思っていることも同じ。
とのことなんだけど、意外にもプラスの思いって出てこないな。いや、、、あったとしても、そんなこと思っていたらダメみたいなのが奥深くに在るのかな。自慢って思われるとか傲慢って思われるとかとか。

そういう思いにも何の意味もありません。


思いについても、想いについても、何でも自由に意味をつけて想えるからこそ、その前にしっかりと、「そもそも何の意味もないよ。意味づけはストーリーにすぎないよ」ということを叩き込んでいないと、いつの間にやらどっぷりとストーリーに入り込んでしまうのだな。

っと改めて自分を観察していて思うな。


私の中に住う亡者も(昔は頻繁にでてきて、最近は頻度は少ないとはいえたまにやってくる、ひたすらに苦しい感覚、何もしたくなくて、無気力で、一層消えてしまいたいという思いに駆られ、自分へのダメ出しがノーマル時の数百倍になるのでは?というくらいになって、でも苦しくて助けを求めている地獄の業火に焼かれ手を伸ばしている亡者のような存在)、その亡者が思っていることも、何の意味もないんだな。

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