頭デッカチちゃんの実践
「見るものを、私は理解していません」
『奇跡のコース』3日目。
私は、このモニターを理解していません。
このコップを理解していません。
あの建物を理解していません。
このカーテンを理解していません。
この手を理解していません。
初日、2日目のレッスン、特に初日の「これには何も意味はない」というものは、スッっと心に隙間を作ってくれた。すると、しっかりと定義づけをして、分離させていたものの間の境界線がぼやけてくる感覚がしてくる。これはきっと生まれたての子どもが世界を眺めている時は、境界線もなく眺めているのだろうなあという感覚。あ〜これだな〜という感じ。
この「何も意味はない」というアイディアを知らなかったわけではないが・・・
何ヶ月か前だったか、いつだったか、
上記タイトルのように「すべてに意味がないからこそ、すべてに意味づけできるんだなあ」ということが腑に落ちたトキがあった。
見えるものを生み出している、見えない存在の私は、一体何を伝えたくてこの現象を生み出しているのか・・・。その視点を持つようになっていた。
この世界は、思い込みの世界でもあるから・・・。
NO,イヤ、闇と思えることさえも、ただいらないと切り捨てるのではなく、自分自身の現れとして包み込んでいく・・・。見えるものすべてがメッセージとして対話していたため、そしてそのメッセージも私が読みたいように読んでいるだけではあるけれども、
いつの間にか対象、感じたものなどそのものに意味を持たせすぎていた。(たぶん)
だから、「これには何も意味もない」は、そこにスキを作ってくれた。
真理の探究というのは、探究を辞めた途端にそこにただ在ることに気づくというけれど、ハートの奥に集中して至福感を感じるとそれでもうなにもいらなくなる・・・これは確かにそうだな〜と感じたこともあったけれども、すぐに逆戻りしたりね。
そうするとまた、いつの間にか色々模索してしまっていて、コレだって結局そうだけれども。
真理の道をいっているものは、よく他の似て非なるものなどに手を出さずにコレだけをやれ、という言い方をしているのにもよく出会う。本当はその方がいいのかもな〜と思いつつも、私は、色々とかいつまんでしまうタイプで。一つのやり方だけを信じてやれない自分、一つのことだけをやれない自分、そういったことへの罪悪感、自分へのダメ出しがあるから、そういった情報もみるし、そしてそこに反応するんだなあ。『神の使者』曰く、「罪悪感こそがワンネスである神意識から分離したときに抱いたもの」らしいし。これさえもトリックなんだなあ。
まあとにもかくにも、私なりの道があるのだろうなあということで、ハートが少しでもほっとする方向を道標に、やっていこうと思う。
あるとき、「感謝」が必要な意味がよく分かった時があって。世によく言われているけれど、それでは私は納得できずにいたけれど、全てが自分の現れだから、という視点で世界をみていると、私のために私の現れがしてくれている・・・という循環にとても感謝が芽生えた。そして感謝生活をしていたけれども、そして今もしているときもあるけれど、、、とてつもない闇におちると、そしてその闇は現象に現れているというわけではなく心の中に巣ぐっているもので、そうすると、感謝のかの字もでてこない・・・。地獄の業火に焼かれる亡者が必死に手を伸ばしている感じってのになる。そうするともう、苦しいし、何もしたくないし、消えたいし・・・という状態になる。
私の中にいる亡者は、私にある程度の感謝や至福を感じさせてはくれるけど、それ以上いくと自分が忘れられる!とでも思うのか、よく顔を出してくるイメージ。これこそがエゴなのかもしれないけど。分離こそ正解と思っているエゴさん。
エゴがそもそもない統合の視点から生きるといいというメッセージをきいたことがあったけれど、分離していると思い込んでいる(「私」があるとおもっていて、「コレ」もあるとおもっていて、「私」と「あの人」は違うと思っている。いくら知識として「皆同じ」と知っていても、無意識レベルでは違うと思っている)状態から、そこを解体していくには、「奇跡のコース」のようなレッスンはアリなんだろうなあ〜と今は感じている。だからコツコツ実践・・・。
ついつい正解を探してしまう価値観がこびりついているから・・・・正解を探してしまうけれども。
頭をしずめて、ハートに意識をもってあたたかさを感じるとそれがすべてなんだろうなあ。
と、結局頭でっかち。でも今日はいく段か亡者レベルはおさまってきている。