子どもの写真をプリントしての所感
ここ1年間ばかり、これまで撮りっぱなしにしていた子どもたちの写真をどうするか悩んでいた。5年分である。いくつかプリントはしたことはあるものの、その絶対数は少ない。
保育園の年度末には、毎回素敵な(そしてこれを先生方はいつ作ってくれているのだろうかと恐縮するほどに立派な)アルバムを作ってくださる。
それに比して息子たちの父は、撮ったらそのままで、時として写真をジジババにメールしたりするくらいで、あとはスマホに入れて満足している。こりゃいかん、と、父は思うわけだ。きちんと、それら子供達の写真は家族誰もがアクセス可能な状態にしておきたい。そう思ったのだった。
というのは自分らの結婚式を思い出したからだ。
昨今の披露宴では2人のプロフィールムービーを流すコーナーがある。もしもこの子らが結婚したときにもそのコーナーがあったとして、父のパソコンにアクセス不可の状態になってしまったりすると、この子達は幼少期を保育園で撮ってもらった写真だけで構成するしかなくなるわけだ。
オレの父親、あんなにカメラ好きだったくせに、子どもの頃の写真はこれっぽっちしかないのかよ。
そう思うようなことになると申し訳ない。
自分たちはオープニング、プロフィール、エンドロールとすべて自身の手で作ったが、プロの方が作るものほど手は込んでないものの、思ったように作ることができて楽しくもあった。写真を選ぶ楽しみもあった。
(どうでもいい話で、プロフィールムービーは式場の担当者に、これ、ほんとに手作りですか? まるで物語みたいですね、とお世辞なしに、というより、どこかの業者を入れたんじゃないのか?的なニュアンスで言われた。サイコーの褒め言葉だった。それからエンディングは妻の写真と自分の写真を前半に交互に載せていったのだけれど、妻は旅が好きなのでその旅先のシーンを。僕は外観がアレなので、その要因である食べているシーンを載せたが誰にも突っ込まれなかった。えらく食べている写真が残されていることに驚くと同時に呆れてしまったが、これ幸いとエンドロールにしたものの、誰もあとで突っ込む人はいなかった。何も気づかれなかったのか、気づいていても、まあそうだよな、でスルーされたか、食べているシーンがあまりに自然過ぎたか、少なくとも妻にはそれが自然だったようで、指摘しても、別に違和感ない的な発言をされたように記憶している)
そう考えてとにかくこれまで撮った写真を、家族が見られるように整理しておこうと思ったわけだ。
ちなみに息子たちが結婚なんぞするときはそのプロフィールムービーは撮り溜められた動画で編集されるんじゃないの?とも思うが、いや、そうはならないんじゃないか、と考えている。ムービーカメラはミラーレスに吸収されていくきらいがあるし、ムービーカメラを稼働するときはハレの舞台のときが多い。長回しされたそれらの動画はプロフィールムービーには使いづらいんじゃないかと思う。またスマホで撮った写真もだが、動画となると、誰もがアクセス可能な状態として保管するのが難しいんじゃないかとも思う。それゆえに写真の方がいいと思うわけだ。
いや、自分が写真が好きって言うのがいちばんなんだ、というのは認めなくてはならないけれど。
さて、それら写真を残すにおいて安上がりはDVDに焼く、という方法だろう。結婚式のプロフィール作りにもデータの方が便利だ。けれど、少なくともこの子らが大きくなっていいおじさんになるまでDVDという媒体が有効かどうかは分からない。それに焼くには焼くでウチの10年選手のMacBookはドライブがもう怪しい。
ハードディスクに整理して保管というのもあるが、これも永遠に、というわけにはいかないと思われる。それに物質ではないデータの整理がとことん苦手だ。今整理できたとして今後もそこに集めるとなるともう面倒だ。
もしものことがあって家そのものがダメになったとき、データだろうがプリントだろうがダメになるのは同じだ、と考えると、きちんとL版でもいいからプリントしてしまった方が良いように思った。
ちなみに自分たちは、特に自分はアルバムに収まりきれない写真が無造作に袋に入っていて、それらも含めてスキャン、データ化した。手間はかかったがスキャンという方法は必ず残ると考えている。いずれ息子らが必要になったらそうやって欲しい。
そんなわけで、ハードディスクに保管されていた写真から息子らが写っているものをピックアップしていった。かなり雑なセレクトで都合300枚ほどになった。実際は250枚ほどだったが300枚を超えるとお安くなるとのことで、残りの50枚はSDに入っていたものを付け足した。ちょうど家族旅行に行ったものがあったので、それらをプリントできて良かった。
およそ一万円弱かかったが、まあいい。計算すると平均年間60枚、月換算だと5枚を一気にプリントしたようなもので、そう考えると安いもんだ。
だが、まだハードディスクに残されて整理しきれずプリントしていないものがあることに後で気づいた。その中にはなかなか良い写真もある。これをプリントしないでいられりょか、というわけでこいつは後半戦としてプリントしていきたい。
そう考えつつスマホを覗いてみたら、スマホで撮ったものもわんさか出てきた。家の中とかカメラを不携帯とか、そんなので撮った、子どものいい瞬間。検索かけてみると実に1000枚以上あるじゃないか。この中からセレクトするとして、また300枚は超えそうだ。
そしてそのスマホで撮った写真が実に良かった。まず自分も写っているものがけっこうあった。息子がいじって一緒に撮ったものだったり、人に頼む時はスマホの方が良いというのもあって家族で写っているものがある。あとは風呂上がりのときとか、ちょっとした瞬間、手元にあるカメラはスマホなのだ。
だからおっ!というときにピッとしてパッと撮ることにおいては最高のファミリースナップシューターになり得る。画質が、とかボケが、とかそんなことより、息子たちのそのめちゃくちゃかわいい瞬間が優先されるのは当然だろう。
撮ることの楽しさはない。が、確実に近くにあることの強みは圧倒的にスマホなのだ。そのことは撮影枚数が物語っている。
追記として
結局後半戦も合わせると800枚近くプリントした。年間160枚 月平均13枚程度ということになる。当然だが、長男坊の写真が三年差で多くなっていた。
以前に誰か、写真家の女性が家のあちこちにカメラを置いておいて、ハッとした時にカメラを撮って撮るようにしているんです、という記事を読んだことがある。なるほど、それはいいや、結婚して子供ができたらそれもいいな、と思った。まだスマホが世に広がっていない頃の話だ。その人は多分フィルムカメラを家のあちこちに置いていたと記憶する。しかし今やとにかく記録するのに、そう、子供たちのかわいい姿を収めるのにスマホほど身近で利便性の高いものはない。そのままジジババへ送信だってできてしまう。けれども、バースデーケーキのシーンや、お家でバーベキューなんかする時はやっぱり近くにカメラを置いておく。日常の記録はスマホの手軽さに敵わないかも知れないが、やはりちょっとしたハレの日はカメラを持ちたい。そういうことをプリントした最初の300枚で改めて思うことになった。
やはり画質がいいのだ。ボケが素敵なのだ。色合いが違うのだ。と、思ってしまうのだ。
スマホでも今や充分の画質だし色もいいけれど、カメラで撮ったものはやはり違う。今回FUJIFILMのカメラとCanonのカメラとライカのカメラで撮られたものをプリントしたが、あ、これはライカだな、とかxpro2だな、とか、6Dだなとか、撮った時の記憶も手伝って気付かされる。特にフルサイズのものはボケが大きいのもあるけれど、ちょっと違うなあと、いや、プラシーボかもしれないけれどそう思わせた。いや、ブラインドでフルサイズかどうか当てろと言われたら無理だし、やっぱりプラシーボなんだろうけど、でも、なあんか、違う。FUJIFILMのカメラだって色が良い。おお、と思ってしまう。もちろんそこまで感じないものもあるけれど、スマホの豆粒センサーと比して、撮像素子の大きさはやはり影響があるように思う。
要は使い分ければいいって話だ。でも、カメラを触ってきたからこそ身についた構図だとか光の加減とか活かされている部分はある。弘法筆を選ばずとは言うが、そうなるまでに弘法大師はどれだけの筆を使い潰してきたのか、そんなことを考えて見れば、選ばずとは言えども、やはり良し悪しは感じていただろうな、その上で、今持つ筆で最良の結果を残せることが大事なんだな、と思うわけで、そのいろんな使い潰してきた筆、つまりカメラの先に、スマホだったりミラーレスだったりコンデジだったりが目の前にある、撮りたいものが目の前に出てきたら、それら写真が撮れるもので、最良を引き出すことが大事なのだと1人合点がゆくのだ。
ここまで書いておいてなんだけども、実はスマホで撮ったものをプリントしたことがない。だから、カメラで撮ったものはやはり違うなんて言ったけれども、比較なんかしてもいないわけだ。だからこれまでの記述は完全なる主観、それどころか思い込みに等しい。うん、プラシーボどころじゃないよね。盲目的信仰に近いところがある。だから、今度きちんとプリントをしてみたい。所詮スマホで撮ったものだから、と、クラウドの雲の中に突っ込みっぱなしではなく、DVDに残してそれで終いではなく、ちゃんとプリントしてみたい。これもちゃんと子供たちの記録なんだから。寧ろスマホで撮った写真こそ、僕しかアクセスできないものばかりだ。たとえそれが画質的に劣るものだとしても、そこには愛してやまない子供たちの泣いたり笑ったりが写っている、それだけでもう価値がある写真だ。
そうしてしかし、多分、プリントしたらカメラ中毒な自分はその画質を見比べることにはなるだろう。そしてそれはやっぱりカメラで撮ったもののほうがいいよね、という結論を証拠づけるものを探すような粗探しになりそうな予感がする。
でもねえ、自分、もしかしたらそんなに差はないかも知れないよ? スマホでも加工したりすればいい色になるかもしれないよ? いや、無加工でも充分にカメラに匹敵しちゃっているかもしれないよ?
本当に写真を撮るのが好きな人であれば、カメラなんかなんでもいいし、どんなカメラでも見事に切り取ることができるのだと思う。画質云々言うのであれば1型センサー搭載のスマホだってある。それでもカメラの方が良いって言ってしまうのであればさ、自分よ、それは、写真を撮るのが好きなんじゃなくてカメラで撮るのが好きという、実にオタク的な自己を見出すことになってしまうんじゃないかしら。
まあ、それでもいいさ、と思う。カメラを持って街を歩くのは至福だ。子供たちをファインダーを覗いて撮るのは至福だ。それはもう確かなことであって、だからこそ、ウチのオヤジ、あんなにカメラ持っているのにオレたちの写真はほとんど残してねえぜ、と揶揄されることは避けたい、そのための出費は、まあレンズを無闇に増やしてしまっている今の状況よりは随分と健全な気がするのだ。そう思っておきたい。