光を撮るために陰を撮る、すなわち時間。
陰影とは陰と光のことだ、というのを最近自覚した。意味としては知っていたが、そうか光と陰か、とふと得心がいった。
フォトグラフとはよく言ったもので、光の絵ということになるわけだ。真実を写すことではない。だから見たままを見たままに写そうとしないでも良い。
昔写真学科所属の先輩にフォトジェニックってどう言うことを指すのですかと尋ねたことがある。彼は少し悩んで、これだよ。まあこう言うことだよ、と指差してくれたのが、木漏れ日だった。県内の、日本でも有数の照葉樹林を見に行っていたときで、まわりは森。あの頃は、なんでこんな地面が?と考えて、フォトジェニックとはもっとこう、今で言うところの「映える」ようなものを指すのだと考えていたから、先輩の、言葉で説明せず、目の前の光を指差したことは、今になってみるととても興味深い。
光をまずは見分けることが必要だということだったんだろう。
モノやヒトを撮る、その前に、光だ、と。
今僕はこれを家の近くの公園で書いている。どうも精神的なリズムが崩れると耳かきをしてやりすぎてしまうクセがあるらしい。それで耳をやっちまった。体調が優れない。かと言って家の中にいるのも癪なので風に当たりにきた。目の前には池があって睡蓮の花が花弁を閉じていた。
ふと気づくとその閉じていた花が開いているではないか。ものの30分。もしこれをじっと見つめていたら、短い時間とはいえ、その変化に気づかないでいたかもしれない。気づかないうちに花が開いている。そう、久々に会った人の体型の大きな変化には驚かされるけれど、ずっと一緒にいる人の変化には気づかない、というように、長い時間、不変だと思っていたものが、光と陰に晒されながら実は変化をしている、そんな一例を見た気がする。
そうして今、光を撮るには陰がどうなっているのかを考えないといけないと思うようになった。何の変哲もない植物の写真でも、おっと思うものは意識的ではないにしても、光の具合が良かったものが多い。それはすなわち、陰の部分の具合が良かったということでもある。どこに陰が落ちるのか、陰が写真の立体感や、雰囲気を決める。そういうわけだ。
タイトルはまったくもってただの言葉遊びなんだけれど、光と陰を撮る、すなわち光陰。時間。写真は瞬間を切り取るが、その瞬間は結局時間のことであって、時間が一枚の写真に内在している。私たちはシャッターを切る時、時間を切り取っているのだ。どんなに動かないものも、光と陰は移りゆく。精神論的発言でなんだけど、その時間の中で少しづつ、ほんとに微妙に変化して行くように見える静的なものに、ここだと思ってシャッターを切る。それもまた、本当の決定的瞬間のひとつなのかもしれない。