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テューダー王朝の始まりと偽物の「王」


プランタジネット朝が終わり、テューダー王朝が幕を開ける。
新王ヘンリー七世は、プランタジネット家とヨーク家を和解させようとした……。
ただ、それは必ずしもうまくいかずヨーク家は尚復讐を求め、偽物の「王」も現れた……。

Tudor Rose 
ヨーク家の白薔薇とプランタジネット家の赤薔薇を組み合わせた意匠のテューダー・ローズ(テューダー家の紋章)。

・テューダー朝の始まり

テューダー朝を開いて、ヘンリー七世は「ふう、やれやれ」と思う間もなく、新しい王家の地盤を固めることが急務だった。
まず、ヨーク家のエドワード四世の世継ぎ、エリザベス・オブ・ヨークとウェストミンスター寺院にて結婚し、長く対立してきたランカスター家とヨーク家の争いを自らの結婚を以て終結させる。
そして、リチャード三世により私生児にされていた議会の決議を無効とし、妻エリザベス・オブ・ヨークを嫡出子の地位に戻し、「塔の中の王子」エドワード五世の王位も認めた。
そして1485年10月30日に、ウェストミンスター寺院で即位するが、即位は8月21日、即ちボズワースの戦いの前日に遡っての即位宣言になった。
これの意味することは「リチャード三世側で戦ったもの全てを反逆罪に問える」ようになった。
但し、これには救済措置もあり「自分に忠誠を誓う者は過去の行動を問わず生命と財産を保証する」とした。
つまり、服従か死か…と、宣言したと同様ですなあ…。

ヘンリー七世の紋章。ウェールズを示す赤いドラゴン、そして両家の融和を示すテューダーローズが配されている。

・経済
ヘンリー七世は即位までに統治の経験はなかった。在位期間を通じて、財政担当者を変えずイングランドの財政運営を安定させることに成功した。特筆すべきは、毛織物工業の奨励をしたことと、貴族、商人に不当に罪を着せ、罰金で財政を豊かにしつつ統制を図り、国の財政を潤わせることに成功した。

・外交
外国政策においては、戦争ではなく、平和の維持により反映することを旨とした。特にフランスと仲良くし、イングランド王位の僭称者の支援をしないように図る。
そして、当時は飛ぶ鳥勢いの、カスティーリャ王国とアラゴン王国の連合をしたスペインとの関係を重要視し、カスティーリャ女王イザベル一世と、アラゴン王国フェルナンド二世、即ちカトリック両王の末娘カタリナ(キャサリン・オブ・アラゴン)と、王太子アーサー・テューダーの婚約を成功させる。
更に、スコットランド王国には娘のマーガレットを国王ジェームズ四世に嫁がせる。これがまた、ゴタゴタするんだが其れはまだもうちょっと先のお話。

・司法
司法においては、王室の権威の回復を図り、封建制からの脱却を図った。
封建貴族が俸給を払って家臣団を雇い、家臣が法廷に引き出された際は貴族が法を捻じ曲げることもあった、が、ヘンリー七世は、貴族が家臣団を雇わないことを宣誓させる。
そして、貴族の専横を裁き、コモン・ロー(慣習的な法)では裁けない案件に「星室裁判所」を用いて、迅速に対応した。

星室裁判所に座すヘンリー七世

また、この星室裁判所は貴族の専横を防ぐ唯一の機関でもあった。
あー、名前は滅茶苦茶格好良いし、え、占いでもやってんの?ってネーミングではあるんじゃが…単に、ウェストミンスター宮殿の「星の間(Star Chamber)」で行われていたというだけのお話ではある。

こんな感じのトコ。

・二人の「王」

さて、王位が不安定な時代には必ず現れます。
王位僭称者」。御多分に漏れずヘンリー七世の御世にも登場する。有名なのは、二人。
因みにこの二人には、正確にはこの二人だけじゃなく、ヘンリー七世の王位を奪おうとする企みには、全て支援した、マーガレット・オブ・ヨークって謂うリチャード三世の姉ちゃんがいたんじゃが…。
明らかに「違うだろ!」っていう今から紹介する二人を公認し、片方は明らかに違うだろ!なのに、自分の甥と認めたりなんかもしたりして、ヘンリー七世にますますスペインと近付く重要性を認識させちゃったりなんかして…

まあ、それは兎も角、このお二人を紹介しようと思う!
ランバート・シムネルの場合
1487年、「ウォーリック伯エドワード・プランタジネット」を名乗る若者がアイルランドに到着する。
その正体は、オックスフォード指物師の息子「ランバート・シムネル」。

因みに、ウォーリック伯は、国王エドワード四世の弟、クラレンス公ジョージのご子息である。ただいまロンドン塔に幽閉中……。
それを知ってか知らずか、シムネルは1487年5月24日、王位継承権を主張し、ダブリン大聖堂で「国王エドワード六世」として戴冠しちゃうんである。王冠なんかあるわけないので、「国王」は、聖母マリア像から「拝借」した金の飾り環を用いた。

ダブリン大聖堂

勿論、こんな一連の流れを聞いてヘンリー七世、激おこ!!!
「エドワード六世」が偽者だと喧伝するために、本物のウォーリック伯を塔から引きずり出して「こいつが本物のウォーリック伯だ!」と、ロンドン中を行進させた。

でも、「エドワード六世」も負けちゃあいない。リチャード三世のお姉さまマーガレット・オブ・ヨークの支援を得て、ロンドンに向かう。


支援者の歓呼を受けるランバード・シムネル

ヘンリー七世(激怒中)は、ノッティングガムシャーのストークで、彼等を待ち受け続く戦いで勝利する。
シムネル自身は(恐らくは王位を狙う者らの傀儡であったため、そして、シムネル自身に屈辱を与えるため)、王室の厨房の使用人とされ、のちに王室の鷹匠となり、生涯を終えた。

パーキン・ウォーベックの場合
今度の偽者は、最初はウォーリック伯(リチャード三世の非嫡出子)を、名乗って…からのー…、「ロンドン塔の王子」の弟の方、ヨーク公リチャードを名乗る。
1491年のお話、生きていればリチャードも19歳(数え年)。

この「リチャード」はフランスでシャルル8世に受け入れられたり(のち追放)、スコットランドでジェームズ四世に歓迎されて貴族のお嬢さんを嫁にしてみたり、ハプスブルク家には(恐らく打算たっぷりに)イングランド王位の正統な権利者として扱われたりもしていた。
その意味では、アイルランドのヨーク派の支持を集めたに過ぎないランバート・シムネルよりはヘンリー七世にとって危険な存在だったかもしれない。
更に、パーキン・ウォーベックの面立ちが、「父」エドワード四世に似ていたという。

パーキン・ウォーベック

そして、1497年イングランド南西部のコーンウォールに120名の軍を率いて上陸。やがて支持を広げ8000人の兵を集めると「我こそは国王リチャード四世なり!!」と、名乗りを上げる。

…が。
兵といっても粗末な農民兵。加えて、ウォーベックに軍を率いた経験があるわけもなし。つまり、烏合の衆。
堂々たるヘンリー七世軍と遭遇した時、殆どが逃げ、ウォーベックはあえなくお縄にかかる。

結局は、「ごめんなさい、リチャード四世ではなく、ネーデルラントの都市市民の子であるパーキン・ウォーベックなんです…」と自白し、ロンドン市内を引き回され、晒し台に立たされたが、一応各国の宮廷に現れちゃったしなあ…、ということで一応は宮廷暮らしを許された。

ここで、満足しておけばよかったものを、何を思ったか、1499年に逃亡を図ったため、ロンドン塔に幽閉。
ここで観念すればいいものを、一緒になったウォーリック伯エドワード(本物)と、脱獄を図ってしまう…。
そして、二人そろって反逆罪として絞首刑に処された。

ここで、密やかにプランタジネット家の男系は途絶えることになる……。

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