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大帝の娘とロシアの鉄仮面③

・稚い皇帝の処遇

「小さな子。貴方には何の罪もないわ」
「悪いのは貴方の親なの」
まだ1歳にしかならぬ幼帝から、王冠を取り上げたエリザヴェータはそう謂った───。

実際の所、エリザヴェータはこの小さな子供とその一族、即ち「ブランズウィック家」を如何しようか、悩んでいた。
この子供自身は無力で、無邪気だけれど、彼もまた「皇帝になる資格」を有しているのだ。
処刑か、追放か、投獄か……。
当初、エリザヴェータは尤も穏便な「国外追放」で済ませようとしていたらしい…が、
あいや暫く、暫く!!!と、廷臣たちから待ったが入る。
「この者を、ロシアから追放したら、必ずや帝位を狙う者に担ぎ上げられますぞ…!!」
其れもそうか…と、エリザヴェータは考えを改める。
イヴァン六世と、その家族はロシア国内に投獄されることに決まった。

・存在を消し去られる

そして、時の政権はこの小さな支配者を視界から消し去り、公の場所からも「消し去る」ことに着手し始める。
幼帝の姿が描かれた硬貨をまず無効にし、軈てそれらは「持っているだけでも」罪とされた。其れを使おうとする者には、「国家反逆罪」で拷問、そして流刑が待っていた。
肖像画も破壊、彼の名前を書いた公的文書、書物も彼の名前がない新しいものへと改めよとのお触れが出る。彼の名前が出てくる説法も禁止。とにかくありとあらゆる場面、目に留まるモノ全てから、イヴァン六世の名前は消し去られ、その存在はまるで「なかったこと」にされていった。
こうしたものを所持する「国家反逆罪」での手続き上でも、イヴァン六世の名前は出されることがなく「特定文書」と呼ばれていた。
因みに、ロマノフ家統治300年を祝う際に作られた、歴代皇帝の肖像画が描かれているジュエリーイースターエッグにも、イヴァン六世の姿は見当たらない(恐らく彼の治世が短すぎることが原因だと推測される。)

ロマノフ家のイースターエッグ

・流浪の廃帝

廃帝イヴァン六世と、その家族は先ず、リガに流される。
其処から、1744年にはオラニエンブルグに移され、其処から国境を離れて、ホルゴモリーに移されることになる。
配流先では、ブランズウィック家の面々は一緒に監禁されたが、イヴァン六世だけはただ一人家族と引き離され隔離されていた。
彼は、元皇帝であり、監禁には「特別な配慮」が必要だったからだ。つまり、反体制派が万が一にも、彼の身柄を攫ってはならないと謂うことだろう。
イヴァン六世は兎も角、両親は、牢獄でつつましく家族生活を送る事だけは出来た様だ。実際、母、アンナ・レオポルドヴナは流刑の地でエリザヴェータ、ピョートル、アレクセイの三人の子供を産んでいる。
そして、末の子、アレクセイの出産の際に産褥熱で死去。
アンナは、エリザヴェータ女帝の命により「ロマノフ家の一員として」サンクトペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキイ修道院に埋葬されている。
1762年には、即位したエカチェリーナ二世により、父のアントン・ウルリヒのみドイツへの帰国を赦されるが、子供達はロシアの帝位継承権を持っているためロシア国内に留め置かれると知り、アントン・ウルリヒは帰国を拒否。其のまま子供達の元に留まり、1774年に逝去。埋葬地は不明。
子供達に、ロシアからの出国許可が下りたのは、1780年になってからだ。
ただ、これはイヴァン六世の弟妹達の話だ。

では、イヴァン六世はどうなったか。
家族達と引き離され一人きり。実は家族と同じ家の別の場所に監禁されていたが、家族達はそのことを知らぬまま───。
食事の心配はなかったけれど、誰も彼に話しかけず、教育も施さず、ただ、生きているだけの生活。外の世界を知らず、父の顔も母の顔も知らず、自分に弟妹がいることすら知らなかった。

そして、1756年、家族がいる場所からも引き離されて、「ロシア版バスチーユ監獄」シュリッセリブルグ牢獄へと身柄を移される。
この時、イヴァン六世16歳─────。

シュリッセリブルグ要塞。四方を海に囲まれてて絶対逃げられない。著名な政治犯が収容されていた。

イヴァン六世は、この超厳重な牢獄の中でも更に厳重に管理されることになる。

そして、イヴァン六世については、エリザヴェータ女帝は管理者たちにある命令を下している。
「脱走しようとした場合、釈放を要求してきた場合はこの囚人を直ちに殺害せよ」
事実上の死刑宣告。
イヴァン六世は、「政治的に死すべき者」であり、基本的に処刑人の刃の下に身を晒しながら生きることを余儀なくされていたのだ。そして、その方針はエリザヴェータ女帝以降のツァーリ達にも引き継がれていくことになる。
イヴァン六世が生きて虜囚の身の上から解放される可能性はほぼなかったのである。


要塞では、彼は「イヴァン・アントノヴィチ」と呼ばれることすらなく、「特定囚人」と呼ばれ、看守はおろか、農奴の使用人でさえも彼に逢うことも言葉を交わすことも、彼の姿を目にする事すら赦されなかった。
投獄中に、他者の顔を見たことがない…とすら謂われるほど厳重に、徹底的に隔離した生活を送らされていたのだ。
無論、隔離されている彼は、誰にも逢うことは出来ず、会話をすることもなく、教育を受ける機会も完全に奪われ、恐らくは陽の光を存分に浴びることすら出来なかったため、発育不良の知恵遅れになってしまったと謂われている。
この哀れな16歳の少年は、何も教えられてこなかったため、何をするにも他者の介添えが必要だった。その際には、彼の世話をする看守が多少のコミュニケーションを取っていたとしても不思議はない。
看守たちの報告に次のようなものがある。

「囚人は『自分には邪悪な魔術がかけられている』と嘆き、絶えず不安がっていた。そしてほんの僅かな物音でも過敏に反応し飛び起きていた」

この子供が、物心つく前から拘束されて過ごしていた、と謂う哀しい事実を突きつけられるようだ。こんな子供を見ている看守たちが、心を動かされたとしても不思議はない。
ずっと閉じ込められている囚人の心は、ゆっくりと、しかし確実に壊れつつあった。

・狂気に落ちて

1759年頃から、イヴァン六世は徐々に徐々に気が触れた者の行動の兆候を示し始めていたそうだ。
1762年、エリザヴェータ女帝から皇位を引き継いだピョートル三世が、イヴァン六世と引見している。
それで、何が変わったというわけでもなく、イヴァン六世は依然虜囚の身のままだった。

イヴァン六世を訪問するピョートル三世。
イヴァン六世は襤褸を纏い、ピョートル三世は尊大な表情で彼を見詰めている。後ろに居る彼の廷臣はまるで見世物を見るかのような表情でイヴァン六世を見詰め、傍らの看守は、イヴァン六世の運命を哀れんで涙を流している。

そして、そのピョートル三世を追い落としたエカチェリーナ二世も、この哀れな囚人を訪ね、イヴァン六世が確実に気が触れていることを確信する。然し、だからと謂ってエカチェリーナ二世がこの囚人の扱いを軽減することはなかった。
エカチェリーナ二世にしてみれば、彼女自身はロマノフ家どころか、ロシア人の血を一滴も受け継いで居ない。
若しも、この「外国人皇帝」を疎む人間が、イヴァン六世を奪還して、彼を旗印にクーデターを起こしたら?
抑々、彼女をロシアに迎え入れたエリザヴェータ女帝その人が、イヴァン六世を追い落としてツァーリの玉座に座っているのだ。彼女にしては、イヴァン六世の存在は気が気でなかったのだろう。

・突然の死

この哀れなイヴァン六世の人生の幕引きは、唐突に訪れる。
1764年7月、シュリッセリブルグ要塞の警備兵のヴァシリー・ヤコブレヴィチ・ミロヴィチが、独房で厳重に管理されている「特定囚人」の正体を知り、彼を解放し、皇位に就かせようと画策する。(因みに、この下士官が勝手に起こしたもので、政治的陰謀ではない。)
そして、いよいよこの廃帝を解放しよう、と謂う時に代々のツァーリによって伝えられているこの囚人に関する処遇、即ち「脱走しようとした場合、釈放を要求してきた場合はこの囚人を直ちに殺害せよ」。
この命令が実行され、イヴァン六世の看守が、イヴァン六世を刺殺する……。イヴァン六世、享年23歳。
そして、ミロヴィチもサンクトペテルブルグで拘束され、国家反逆罪者として四つ裂きの刑に処されている。

イヴァン六世の死。ミロヴィチがイヴァン六世の遺体の前で立ち尽くしている。

・遺体の行方

殺害されたイヴァン六世の遺体は、シュリッセリブルグ要塞のどこかに埋葬されたと謂われている。彼は、アレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬されることのなかった唯一の皇帝だ。廃帝になったとは雖も、エカチェリーナ二世は、ピョートル三世をきちんとこのロマノフ家の埋葬場所に埋葬しているし、なんなら、エリザヴェータ女帝もイヴァン六世の母を、この修道院に埋葬している。
エカチェリーナ二世にとっては、それだけ、このイヴァン六世は表に出て来て貰ってはまずい存在だと謂うことだったのだろう。
2008年に、アルハンゲリク州ホルモゴルイでの発掘調査で特別な方法で埋葬された青年の遺体が見つかった。埋葬時期、そして体に残ったサーベルの傷の形状から「この遺体はイヴァン六世のものである可能性が極めて高い」と謂う鑑定結果が出たが、その後ロシア科学アカデミーによって否定されている。
イヴァン六世はシュリッセリブルグで殺害されており、其処には、彼の遺体の他にも無数の遺体が墓石もなく埋まっているため、イヴァン六世を見つけ出すことは困難だと謂う。
こうして、イヴァン六世は、帝位を奪われ、生前はその存在を否定され、亡くなって尚、その遺体すらもロマノフ家の墓地ではなく、彼が亡くなった牢獄に無造作に埋められている。

彼は全くの無辜の犠牲者であり、死を選ぶことも出来ず、その身の振り方すら彼が自らの意志を持って決めることが出来なかった。
只管に帝冠に振り回され続け、その帝冠をほんの少し戴いた故に只管拘束され監禁され、独房でずっと壁を見詰めている生活を余儀なくされた。

イヴァン六世は、自分が何者かを知っていたのか。彼は気が触れていたのか、その答えは、今や誰にも知ることは出来ない。
ただ、彼についてだけは、自分が皇帝であった事実を知らず、静かに自らの内の世界に入り込み、正気を喪っていてくれていたなら良いと思う。
若しも、自分が「皇帝イヴァン六世」その人であると自覚した上で正気を保っていたのなら、とてもその運命の残酷さには耐えられるものではなかっただろう。
皇帝になる資格を持つが故に、修道院に入ることも出来ずただひたすら存在を忘れ去られ、死刑宣告の下生かされ、時の権力者に死を願われた……。
そんな、酷く残酷で、哀しい生涯だった。




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