ロマノフ家の歴史
ロマノフ王朝の始まり
ニコライ二世は、革命の四年前、1913年2月21日、ロマノフ王朝三百周年を記念して次のような詔勅を発表している。
「至高の神のご意思によって三世紀前、ロシアの建国者にして領土獲得者リューリク王朝の血筋が絶えた。苦しい苦難が我が国を覆いルーシは無秩序とスムータ(動乱)の極みになった。外敵は国を侵した。ロシアの民衆は祖国防衛に決起し、神の御加護を受けて打ち砕きモスクワを解放し…1613年2月21日、全国集会を招集してリューリク公とウラジーミル聖公の血筋に近い大貴族、ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフを挙国一致で皇帝に選出した…、彼は帝国に仕える重責を引き受けた…」
ロマノフ家の始まりはどのようなものであったかは明らかになっていない。ロシア帝国の有力貴族だったという説もあれば、ドイツ騎士団の残酷な攻撃を逃れてきたプロイセン貴族だったという説もある。
その、ロマノフ家が歴史の表舞台に出てきた切欠は、雷帝イヴァン4世。彼の最初の妻が、アナスタシア・ロマノヴナ。
アナスタシアが皇帝の妻になることにより、ロマノフ家が一気に政治の中枢に躍り出ることになる。
イヴァン4世の次に、フョードル1世が即位。そのフョードル1世も跡取りを残さず、後継指名もせぬまま亡くなり、リューリク王朝は断絶を迎える。
その後、フョードルの妻の兄がツァーリを名乗ったり「偽ドミトリー」を始めとした偽皇族が現われたりと、ロシアは未曽有の大混乱に襲われる。これは、ロシア史上「スムータ(大動乱)時代」と呼ばれている。
さらにこの混乱に乗じて、スウェーデンや、ポーランドが介入し、モスクワがポーランド軍に占領されてしまうという事態に陥る。
やべえ…、やべえよ…!こんな中でツァーリになるとか、絶対無理だし…!と、有力貴族がこぞってツァーリの座を辞退した結果、3年間も「ツァーリ不在」というとんでもない時代が訪れる。
このままじゃロシアが滅亡してしまう…!と、謂うわけでロシアの国民軍が組織され、1612年、ポーランド軍を打ち破りモスクワ奪回!
さて、改めてツァーリを選ぼう、と言うわけで、白羽の矢が立ったのがイヴァン4世の愛妻、アナスタシアの血統、ミハイル・ロマノフ。
因みにこのミハイル、父が政争に敗れ、母と一緒に「イパチェフ館」に身を潜めていたこともある。
最初はミハイルも「こんな時期にツァーリとか無理…!」と、拒否したが、「貴方は神に選ばれたのです。拒めば神はお怒りになるでしょう」的な説得を受け、しぶしぶ了承。
ここに、18代304年続く、ロマノフ王朝が誕生するのである。ぱちぱちぱちー
ロマノフ王朝について簡単に
このように、ロマノフ王朝はスムータ(動乱)の中から、ロシア民族統一の悲願を込めて発足した。
ツァーリの中には英邁なピョートル大帝、エカテリーナ二世のような傑出した君主も居たが、どちらかと謂うと、知能や精神に欠陥のある君主、まだ赤ん坊の君主など、明らかに的確さを欠く君主の方が多かった。
そして、ツァーリの座を巡り宮廷のクーデター、暗殺の影がつきまとい、ツァーリになったから安心♪と、うかうかしていられないのもロマノフ王朝の特徴と謂える。
18代のツァーリの中ではピョートル3世、パーヴェル1世、アレクサンドル2世、ニコライ二世の4人が殺害されている。
更に、ソフィア皇女、イヴァン6世、そしてニコライ2世は幽閉されている。ロマノフ王朝は西洋王室とは違う東欧的な色合いを帯びているのはこう謂う所からであるともいえる。
そして、ロマノフ王朝の特徴はその「ロシアの血の薄さ」にある。ピョートル大帝以降、ロマノフ家のツァーリや皇太子は、国家間の政略結婚の必要からヨーロッパの王女を妃に迎える音が一貫した伝統になった。
このため、ツァーリの「ロシアの血」は、代を重ねるごとに半減していくのは必然だ。ロマノフ王朝の政略結婚の伝統は、「青い血」を守り抜いて滅亡して行ったスペインとは正反対、ツァーリの中のロシア人の血を限りなく薄くし、殆どロシアの血を持たないツァーリを生み出す結果になった。
それどころか、エカチェリーナ1世とエカチェリーナ2世のような一滴もロシアの血を持たないツァーリも出現した。
まあ、この人たちはもともとはツァーリの嫁だしね…!!
ニコライ二世
ニコライ二世にも、その息子アレクセイにもロシア人の血はごくわずかしか流れていない。諸王国の地が混交した「ヨーロッパ王室人」とでもいうべき血が流れているのだ。
それでも、ニコライ二世は、否、統治者としてのロマノフ家はロシア人の血をほとんど持たぬとは雖も「ロシアを理解し愛しているという点では誰にも負けない」と謂う自負を抱いていた。
ある日、ヤルタの保養先でのロシアの歌曲を聴いて大いに感銘を受けこう謂ったものだ。
「私は、これまで自分以上にロシア的な人間はいないだろうと思っていた。しかし、今、この歌曲を聴いてそうではないことがわかった。(自分と同じようにロシア的なものを愛する者が他にもいることを知って嬉しい)」
また、ニコライ二世はロシア語の会話や文章の中に外国語を挟み込むのを嫌っていた。ロシア語は語彙豊かな言葉であって、どんな外国語の表現もロシア語に置き換えて言い表されると信じていた。
こういった所謂ロシア愛、が、統治者としてのロマノフ家の伝統だった。