王妃の結婚。王女の誕生
・離婚に向けて
いよいよ、王は実際の離婚手続きに向けて舵を切った。1527年5月、うるじー枢機卿が教皇特使としての特権により、公式な審問会を設置し、王の結婚が正当か否かを審議することになった。当初、ウルジーはこの審問会についてキャサリン王妃には知らせなかった。実務的に王の離婚について進めていくにつれ、ウルジーは今回の一件は恋に目がくらんだ王様が考えるほど簡単にはいかないと悟ったようだ。
更に、ウルジー枢機卿の前に立ちはだかったのが、ロチェスターの司教ジョン・フィッシャー。経験で学識があり人望も厚いこの男が、結婚は正当であったと主張する。
国王は国王で、キャサリンにいよいよ離婚を切り出すのだ。
最初は(用心深くも)アン・ブーリンの名前を出さずに、20年近い結婚について自分が「良心の呵責」を感じていると妻に打ち明ける。
王は出来るだけ丁寧に穏やかに「学識があり信仰も深い男達が、我々夫婦が罪を犯している」と通告したのだと妻に説明する。
途端に王妃は目を見開き打ちひしがれ、その両目から大粒の涙をこぼし始める。
王としては、王妃を説得して、自ら宮廷から身を引くように仕向けたかった。神学を持ち出せば、王妃はショックを受けるだろうと思っていたのだ。
然し、ヘンリーは妻の事を全くもって見誤っている。
キャサリンはそんじょそこらの女ではなかった。ヘンリー七世に苛め抜かれても耐えに耐え、あまつさえ、そのヘンリー七世に意見して見せた。
ヘンリー八世が、「神が我に与え給うた伴侶」と信じ抜いた。
王妃は引き下がるのではなく、戦う決意をする。
ウルジーが後で聞いたところによると、王妃は「非常に頑なに強情に」なり、アーサー王太子は「自分を肉体的に知ったことはなかった」と断言する。ヘンリー王と自分は夫と妻であり、常にそうであった。自分をどこかにやりたいならそうすれば良い。でも、決して自発的に出ていくことはしない。
誇り高いスペインの王女、キャサリン・オブ・アラゴンはそう決意する。
後の言葉としてキャサリン・オブ・アラゴンは、意地を張りすぎた、と言葉にするのは容易い。事実、彼女は王の言うことを聞いておとなしく身を引いて居れば、王妃の立場を、ヘンリーの妻という立場は喪ったとしても、最晩年彼女の人生はもっとずっと楽に、メアリー王女との面会もある程度は自由に出来ていたはずだ。敬虔にして慎み深いキャサリンであれば、修道院生活とてそこまで苦になることはなかったはずだ。
では、キャサリンはなぜ抗ったか。頑ななまでに離婚を認めず、今際の際の手紙にも「イングランド王妃」と署名したか。
キャサリン・オブ・アラゴンにとって、ヘンリーとの結婚は人生で唯一絶対のものだ。寄る辺のない異国に一人言葉もわからずにいた少女時代、ヘンリー七世にも楯突いた。今更、ヘンリー八世に屈して20年も連れ添ってきた挙句、相手方の勝手な言い分を認めて、カスティーリャの王女が、カトリック両王の娘が、王の「情婦」だったなんて認めることが出来ようか。
それに…、自分が座っていた玉座に腰かけようとするのが、己よりずっと若くてしかも、身分が低いだなんて、カトリック両王の娘にしてカスティーリャの王女として我慢できるような話ではない。ただ、聡明で育ちのいいキャサリンはそれを口にしないだけだ。
ヘンリーもヘンリーで、遅々として進まぬ離婚交渉に苛立ちながらもアンに手紙を書く時間が安らぎだった。
「我がミストレスであり友である人へ。
直接お目にかかることが出来ないので、せめてもの徴として私の肖像をブレスレットに入れて送ります。…私が代わりに入って、お好きな時に見て頂ければいいのに」
「愛しい人の胸に抱かれていたい。その可愛い胸に直ぐにキスが出来るから」
相変わらず「読んでごめんね…」と、謝罪したくなる文章が並ぶ。
離婚交渉自体は遅々として進まなかった。
大法官のトマス・ウルジーをローマに派遣することで教皇からアンと結婚できるように許可を取り付けたがったが、中々上手くいかなかった。
抑々、カール五世はその教皇を文字通り「手中」にしていたし、ヘンリーが教皇から望みの物を得られる見込みなどなかったのだ。
そのカール五世にしたって、スペインやイタリアの領土をフランスに侵略されるという問題があり、そのフランスはフランスで、裕福な教皇の姪を王子の妻に迎えようと画策していた。
・王妃の抵抗
そんなこんなで、ヘンリー王とキャサリン王妃は両者一歩も引かず、王はアン・ブーリンと結婚したい、キャサリン王妃は結婚の無効を認めるくらいなら死んだほうがまし、と謂い放つ。
両者、和解の道がないのであれば…と、1529年6月21日、枢機卿による特別法廷が開かれる。
王妃は、その法廷で跪いて王に哀願する。
「陛下、お願いでございます。わたくしたちを結び付けてきた愛にかけて、どうかわたくしに正しい裁きをお与え下さい。哀れみとお情けをいくらかでもかけてくださいませ。わたくしは哀れな女でございます。お国の外で生まれた余所者でございます。ここでは友はおろか、公平な弁護人さえ持っておりません。貴方におすがりいたしますのは、この国で正義を司るお方であるからです…」
「神と全世界が証人になりましょう。わたくしはあなたにまことの妻としてお仕えし、御心にかなうようにと努めてまいりました……。貴方がお好きなこと、慰みになさることならなんでも喜んで、文句ひとつ申しませんでした。…陛下がお好きなら自分もその方を好きになる。それもみなあなたのため。自分が好きになる理由があるかどうか、友人か敵かなどは如何でもよいことでした」
「わたくしから、貴方は多くの子供たちを授かりました。ただ、神の御心により子供たちはこの世から召されてしまいましたが」
そして…、彼女は続ける。
「そして初めてわたくしが貴方のものになったとき、主を証人として申し上げますが、わたくしは真実乙女で御座いました。殿方の手に触れられたことはありませんでした。これが、真か否か、貴方の良心が御存知でしょう」
王は何も答えない。王は、今までもこれからも、公の場でこの二人だけが知っている、しかし重大な問題について王妃に嘘を吐くことはなかったのである。
謂い終わると、王妃は立ち上がり、そして傲然と顔を上げ、ゆっくりと法廷から出て行った。
廷吏が呼び掛けても答えない。「呼ばれております」と告げられても、彼女はこう答える。
「それが何なのです。ここに公平な裁きはない。居ても仕方がありません」
後の人は言う。
「もしも、決められるのが女達であれば」「イングランド王は負けるだろう」
・結婚の強行
離婚の手続きは相も変わらず遅々として解決の糸口すら見えなかった。
その中で、「教皇を速やかに説得できなかった」ためにウルジー枢機卿が反逆罪に問われ、護送中に病死する。
彼の宮殿は今も「ハンプトンコート宮殿」として現代まで残る。
そして、ヘンリーは離婚をなかなか認めないローマ…教皇とも決別する。
イングランド独自の宗教、「英国国教会」を立ち上げる。イングランドが思い切ってプロテスタントに舵を切った瞬間だ。
彼は、「英国国教会」の首長となる。
そして、ヘンリー王は内外にアンが実質的に自分の妻だということを明確にする。
1532年、レディ・アンをヘンリーは「ペンブローク侯爵」に叙する。そしてイングランド領内に5つも荘園を与えられ、そこから上がる収入は莫大なものになった。更に国王はキャサリン王妃に「王妃の宝石」を渡すように使いを送る。
例によって王妃の返事は「何故、わたくしが進んで宝石を手放さなければならないのです?」「正式な妻として長年身に着けてきたものを」
どうしても渡せと謂うのなら命令なさるが良い。命令とあらば従いましょう。
国王は、きちんと王命として宝石を差し出させる。キャサリン妃は国王が合法的に権力を行使する場合はいかなる命令にも応じるという態度だったから、此処でも素直に従った。
彼女がすべての宝石を送り返してきたので、国王はたいそう満足し、「我が女侯爵の為に」取り返したルビー20個と、二つのダイヤモンドを含む宝石が手渡された。
そして、ついにその時が訪れる。
ヘンリー八世とアンが「結ばれた」のは1532年の終わりごろだったと推測される(エリザベス一世が1533年秋の生まれであるから遅くともそれまでには結ばれていたと推測される。)
そして、アンの腹に子供が宿る。
アンの腹の中に子が宿ったならば、国王の婚姻問題は緊急性を帯びてくる。
うかうかしている間にアンの腹はどんどん大きくなる。
この子がアンの胎から出てくるまでには解決しなければならない。我らが跡継ぎたる王子を庶子にするわけにはいかないのだ。(王はこの時点で無条件に腹に宿っているのは男子だと信じて疑っていなかった)
取り急ぎ、ヘンリー八世とアンは、カンタベリー大司教、トマス・クランマーの言によれば、1533年1月25日に結婚している。極秘結婚だ。
とは、雖も、この時点で国王はまだ離婚していなかった。重婚かよ……。
4月初め、二人の結婚が公表されたが、婚礼がいつ行われたかは伏せられていた。
そして、キャサリンが二人の結婚を知るのは4月9日だ。以後、キャサリンの扱いは「王妃」ではなく、「王太子未亡人」となり、30年前、アーサー王太子を喪った時のこの称号で、公的にも呼ばれることになった……。
そして、5月23日、クランマー大司教はヘンリー八世とキャサリン・オブ・アラゴンの婚姻は無効であるとの裁決を下す。
そして、アン・ブーリンにとって最良の日───、戴冠式を迎えることになる。
・アン王妃人生最良の日
アン・ブーリン新王妃の戴冠式は1533年6月1日、妊娠6か月目に執り行われた。この儀式の華やかさが、アンの悲劇で終わる人生に於いて華やかであるが故に、より一層悲劇性を際立たせている。
アンの戴冠は、明らかにお腹の大きな王妃と謂うことで、「世継ぎの誕生」を印象付けるのに一役買ったとも謂えよう。
アン王妃は、戴冠すべくグリニッジからロンドン塔へと河を上って入城した。
「金の豪華な衣装に身を包んだ」王妃に付き従うのは「50艘の大きな屋形船」。どれも天幕を垂らし絨毯を敷き詰め、吟遊詩人が乗ってアン王妃を讃える甘美な調べを奏でている。そんなわくわくするような光景がロンドンに現れる。
準備に多少の揉め事(アン王妃が前王妃の屋形船の徽章を自分のと取り換えて川を上りたいと言い張り、王を憤慨させたとか)があったとしても、そこに広がるのは世にも華やかな光景だった。
とは、雖も、シティでのお祝いには正真正銘成功とは言えないところがあった。
例えば、ヘンリーとアンのイニシャル「H」と「A」が様々に組み合わされて飾られたので、口さがないロンドンっ子はこう謂って揶揄したものだ。「HA!HA!(ハッハー!)」
そして、ロンドン塔からウェストミンスター迄の道中のパレード。
新王妃が、美しく装っても(見事な黒髪を長く垂らし宝石をちりばめた真紅の絹のドレス、ひよこ豆より大粒の真珠の首飾りに、見るからに高価なダイヤモンドでできたブローチ)、そして王妃自身が美しくても、吟遊詩人が幾ら彼女を讃えても、それでも、「歓声は少なかった」。
キャサリン王妃が通る折には、民衆から「主のお恵みを」という声が上がったというのに。
シティの外観は美しかったし華やかだったけれど…民衆は殆どが帽子をかぶっていた。
民衆は、若々しく美しい王妃様(アン)よりも、王の隣で穏やかに微笑む王妃様(キャサリン)の方をこそ慕っていたのだ。
・王子ではなく王女
1533年7月11日付勅書で教皇クレメンス七世はクランマーの審判の無効を宣言、ヘンリーにアンと別れるように命令し、二人の子は私生児となると付言する。そして、手続きは保留されるにしても、国王を破門すると言明する。ただし、そのことはキャサリン王妃の手助けにはならなかった。
アンの腹の子供はすくすくと育っている。
国王は、妻の妊娠中は家での楽しみを奪われた男として、ちょっとした浮気は許されるものだと思っていた。だから、新しい妻が目くじらを立てる理由がわからない。
アン王妃としては、抑々自分が王妃として立つことが出来るようになった理由が「王の浮気」からだったのだから、目くじらを立てずにはいられない。
王がほかの女性に心変わりして、今の妻(アン)を捨てる可能性は十分にあった。何故なら、王は既に一度妻(キャサリン)を捨てているから。
ほら、国王の情熱が一時的なものであろうがそうでなかろうが、それに応えようとする女官たちの眼差しが王に注がれている。
それでも、そんな不安も、腹の中の子供が解決してくれるはずだった。
腹の中にいる子供は男児だ、と誰もが信じていた。占い師も、国王の侍医も、王妃の腹の中に居るのは「男児である」と、断言する。
慣習により、王妃は出産の約二週間前に産室に入る。
「きれいな藁のベッド」を出産の床にし、窓は一つを除きすべて業火に刺繍されたつづれ織りで覆われる。そして、当然「男子禁制」だ。
そしてついに、その時が訪れる。
──────…1533年9月7日 午後3時頃。
元気な赤子が産声を上げる。
「全能の神の思し召しにより、またその尽きせぬ慈悲と恩寵により、我らの元に今送られし恵み、王子のご誕生」
「全能の神に感謝し、栄光を高らかに褒めたたえん。そしてかの王子の健康と永久なる栄えを祈願する」
王妃が、王子の誕生を知らせるための文書だ。
しかし、これは少しだけ直さなければいけなかった。
「Prince」のところを「Princess」に。
そう、産声を上げたのは王子ではなく、王女。
名前は「エリザベス」。王の母にあやかったものだ。
後に、誰もがその名を知ることになる「エリザベス一世」の誕生。
彼女が、父ヘンリーの望んでいた「王子」よりも強く逞しい君主になる。
そしてイングランドを栄光へと押し上げていく女王になるとは、まだ誰も知らない───。