気高き次世代の為の小曲
『明日と少年』
明日が地下で眠りについて一年になる。あまりにも来すぎたのだ。繰り返される到来と出立に明日はとうとう限界を迎えて眠るしかなかったのだ。人々は大いに嘆いて悲しんだが、それでも一日が過ぎて一週間が過ぎた。やがて年をまたいだが作物が収穫できるので誰も気にしなくなった。人々は酒を飲み昼寝してやがて忘れていった。
少年は穴を掘っていた。数日は誰も気付かなかったがやがて近くに住んでいた大人が聞いた。何してるんだ。明日を掘り出してるんだよと少年は返した。誰も迎えに行かないから僕が行くことにしたんだ。眠っているのは地下の深い深い場所だから無理だぞ、と大人が言った。それでも誰かがやらなきゃはじまらないよ。少年は返した。大人はフンと鼻を鳴らしてそこから離れた。やがて穴の深さが五メトル六メトルを超えると人々が騒ぎ始めたが少年は気にしなかった。かつて鼻を鳴らした大人が慌てて降りてきた。しかし少年はもう穴の底の底に掘られた穴から明日の元へと降りていった。
気の遠くなる時間を少年は進み続けた。飴とチョコを持ってきていたが特にお腹は空かなかった。どんどん下った。途中で嫌になった時は丸まって目を閉じていた。するとわずかに力が出てきたので少しずつ進んだ。そしてとうとう明日の前までやってきた少年言った。戻ってください、あなたがいないと始まらないんです。もう傷も癒えたんじゃないですか。
私がいなくても人々は生きていくでしょうと暗い顔で明日は言った。確かに傷は癒えましたがもう人々は私を忘れているのです。今更でしゃばった所でどうするのですか。私も嫌になったんですと明日は続けた。少年は言葉に詰まったがやがて前に出ると明日を掴んだ。僕はあなたにいてほしいんですと彼は言った。あなたがいないとチョコの賞味期限が来ないけど、僕も死なないかもしれないけど、でも僕は大人になれないんです。僕は大人になって世の中と戦わないといけないんです。別に大人にならなくても生きてればいいじゃないですか。明日が返した。それは違うんです。大人になるのは難しいし、辛いことも多いけど、でも僕は子供だから大人にならないといけないんです。明日の瞳は揺れたが動かなかった。少年が唇を噛み締めて明日を引っ張ろうとした途端、後ろで音がした。振り返るとあの大人がそこにいて汚れた服で明日と少年を見ていた。心配かけさせやがってと大人は言って少年の頭を撫でた。あなたも一緒に戻りましょうや、あなたがいないとメリハリがないんですよと明日に向かって続けた。
少年が大人の大きな手を掴んだ。それから明日へと力強く手を伸ばし、明日は反射的に手を出してしまった。少年はそれを掴んで笑顔になった。つられて大人も笑ってしまい、明日も笑ったのだった。
『女子』
英語教師の彼が授業をしている途中で異変に気づいた。黒板に板書してクラスを振り返った際、どう見てもクラスメイトが一人多いことを知った。はじめは気のせいかと思ったが二回目に見た時もその女子生徒はクラスの隅でノートを取っていた。他の誰も気づいた様子はない。(厄介だな、変な奴が入ってきたのかも知れん。あるいは幻覚か)そう思った彼は過去分詞の用法を、とりあえず隅にいる女子生徒に向かって解いてみるよう言ってみた。すると女子生徒がおずおずと立ち上がろうとした横でむっすりとした顔で男子が立ち上がりよく分かりませんと答えた。脇の男子が笑った。
できれば一回限りのことであって欲しかったが次の日も女子は教室の隅にいた。しきりに彼を見ていたから女子も彼を注視していることはよく分かった。霊能力者でも探すべきか、それとも休みを申請してみるかと悩んだ彼だが、決めあぐねたまま授業を続けることにした。三日目も四日目も女子はそこにいて教科書とノートを広げた様はまさに正規の学生そのものだった。いなくならない女子に彼は頭を抱えたくなったが授業はしなければならない。彼はできる限り隅を見ないようにして授業を進めたが、一度生徒たちに板書を求めたところで女子が手を上げた。マジかよと思いながら彼は他の生徒を指したが、構わず女子は彼の前まで歩いてくると自信満々にノートを抱えてみせた。こうなると無視することも難しく仕方なく黒板の隅を指した。女子は指された場所にノートを見ながら答えを書き、きちんと正解していたので彼は舌を巻いた。
次の日になると女子は分厚い参考書を授業前の彼に差し出したのだが、そこには長文に赤いマーカーが引かれてあった。おそらく分からない箇所だろう。女子を追い払う仕草をしながら彼は悩んだが、その末に授業中に脱線することにした。なにせ授業のパートから百頁は進んでいる。留学中の面白いエピソードにかこつけて冷や汗を掻きながら文章の解説をした。他の学生らがぽかんとしている中で女子は真面目な顔で彼を見つめ何度も頷いていた。
そうして二ヶ月が経過したが女子は未だに去らずに彼のクラスにいる。そのうち勉強範囲が高校を越えたので、彼は女子にシェイクスピアやオーウェルの原著を渡して勉強させるようにした。彼女はしきりに首を捻りながら勉強を進めるが、彼女は生きている学生よりも一生懸命学習していた。事情は分からないが彼女はとにかく勉強をしたいのだろう。だから彼もマーカーを引いた部分や四角で囲われた部分を解説している。そのうちにある日、彼は机の上にラッピングされた物が置かれていることに気づき、それが花であることに気づいて苦笑いする。それを彼は一年ほど自宅に飾ることにするが、その花がいつまでも枯れないことに不精な彼は気づかない。女子はまだそこにいる。
『何かが先からやってくる』
最初に音を聞いたのは中年男性だった。散歩中に海辺を歩いていたらそれを聞いたのだ。工事の音がすると周りの人に言い続け、やがてテレビ局や新聞記者にも言うようになった。海辺に響く工事音は謎の現象として広まり海外からも人が来た。社会現象になった。テレビ中継を野次馬しながら男性は、これでここも名所になるかなと考えていた。朝も夜も引きも切らずに人が押し寄せる中、いよいよ工事音が近づいてきて警察まで出動する騒ぎになった。その頃に彼は海辺で小舟を漕いでいた。なぜか浜辺に小舟が置いてあり、なぜか海上保安庁は彼に気づかず、なぜか彼はそれに乗らねばならない気がした。そして彼が揺られること二時間、ボートが空中に吸い上げられた。呆然としながら彼はボートから投げ出され空中にぶつかった。まるで地面みたいな感触で、これは橋かと反射的に思った。ずっと後ろには彼が工事音を聞いた浜辺に続く。きっとこの橋はあそこに繋がるのだ、と考えた彼は橋の根本が気になり見に行くことにした歩きながら彼は人魂のようなものが道の上を歩くのを見た。たくさんの人魂が散歩もしくはジョギングのように動いていた。やがて目が慣れると大きなツルハシやハンマーみたいなものが上下に動いているのも見えてきた。こちらの機械かもしれない。根本にはやはり人魂がいる。一体彼らは橋を繋げてどうするのだろうと思ったが、誰かに聞くわけにもいかない。
延々と道を歩いて行くと人魂の正体がようやくつかめてきた気がした。彼らはやはり人間なのだが服装が特異だ。ひらひらと布めいたものを着ているかと思えば兵隊みたいな服装でいるのもいる。歩いていると誰かの声が耳に入ってきた。これでもっと行き来がスムーズになるな。最近は向こうから入ってくるのが減ってきたわねえ。こちらの赤ん坊も送ろうよ。ねえ僕はアイスクリーム食べたいんだ。他愛のない話だが久方ぶりに人の声を聞いた気がした。直に橋があの浜辺に繋がりそこから交流が始まるのだろう。どんな交流か分からないが悪いものではないはずだろう。それから海辺をのろのろと歩いていると人の手形や足形みたいなものが設置された場所に入った。いろんな人の名前があったが知り合いのものはなく、昔の有名な人や古人の名前が記されていた。そのうちに名前が読めて文字が読めるようになってきた。街の行く人の話もおおよそ分かるようになってきたのだが文脈が掴めないので理解が難しい。このままどうするかと考えていると彼は自分の背丈が小さくなりつつあることに気づいた。縮んでいる。それはさながら自身の細胞が若返る新しい感覚であったが理由は分からなかった。ここの空気かもしれない。そのうち人々があちらへと出発するというので、全てを忘れた彼は橋のたもとまで行き、手を振った。人々は橋をわたってあちらへと消えていきやがて彼はどうして自分がここにいるのか分からないまま街の向こうへと消えた。
『トラ』
むかしのことです。山の中にトラがいました。トラはどこからか迷い込んできたのですが慣れない所が嫌いだったトラはいつも何かを壊していました。目についた生き物を殺しました。川に土を投げ込んで自然を汚そうとしました。他の生き物たちはそれが嫌だったのですがトラは強いのでなんとも言えません。トラもそれを感じていてとにかく全てが嫌でした。そんなときにカミサマがトラに話しかけました。山よりも大きい姿にトラはひれ伏しました。
「おおカミサマ。どうしてわたしを怖がらせるのですか。そんな大きな姿で何をなさろうと言うのです。」
「わたしはお前をとがめに来たのだ、トラ。お前がいろんなものを壊したり崩したりするからだよ。お前も心は素直なのに、どうしてみんなと仲良くしないのだ。」
「わたしは自分と違うものに我慢がならないのです。わたし一人だけがこんなところに迷い込みました。まわりに仲間はいない。全てが違いすぎる。わたしはこんなところ、一秒だって耐えられない。」
「そうか。」とカミサマが言うなり、トラの後ろに雷が落ちて山が燃え始めました。すぐに火は木に燃え広がりどんどん大きくなりました。動物たちが悲鳴を上げて逃げました。「ではお前にとってこんな山はいらないだろう。お前のようなトラは珍しいからな、わたしは山よりもお前の方が大事だ。」カミサマが言う横でタヌキやヘビやカラスたちが涙を流しながら逃げました。トラは立ちすくんでいましたが、やがて彼の脇を通り抜けようとしたネズミがトラの尻尾をかじりました。
「なにしてるの、早く逃げなきゃきみも死んでしまう。」すると他の逃げようとしていた動物たちも、トラの背中をつかんで走りました。。トラはショックを受けました。こんなに小さな生き物が、トラが踏めば死んでしまう生き物たちが、トラの心配をしたのです。自分がしたことがいかに的外れだったかに気づきました。苦し紛れにトラは吠えて、涙が溢れました。トラはみんなを振りきって山に入ると燃える木々を倒して川に投げました。トラも燃え始めました。山にはたくさんの木があったので、トラはたくさん投げました。トラは焦げて身体が崩れてきましたが、構わずに力の限り吠えました。長い時間が経ち山火事が収まったころにはトラは粉になっていました。逃げていた動物たちが見守る中で、カミサマがトラの粉を掴みました。
「この粉を山にまこう。水を降らせよう。そうすればトラを受け継いだ、新しいいのちが生まれるだろう。」そうして粉を植えていくと、次第にトラの毛皮のようにうつくしい木々が芽生えてきました。それにみんなはトラという名前をつけて、山はまた元通りになりました。トラは木の中からみんなを見つめましたが、その心は穏やかで、はじめて笑顔になることができたのです。
『古井戸』
道の向こうから狼がやってくる。狼の腹には牝と牡の子供が入っていて母親は産む場所を探している。大きく舗装された道の後ろからトラックが通り狼は草むらへと逃げこむ。その拍子に足が深いところに引きずり込まれる感覚がある。そこはかつてあった古井戸で飛び込んだ際に腹がつっかえてしまう。どれほど力を込めても腹が抜けずに狼は泡を吹く。昼の二時から夜の八時まで自身の腹をゆるめたり力を込めたりと格闘は続くが終わらない。終いには疲れのあまり狼は昏倒する。朝になるとスーツケースを携えたビジネスパーソンが脇に立っていて狼は食らい付こうとするが腹が抜けない。自身の状況を思い出した彼女は懸命に努力するがその様を見る男はネクタイを解いてゆっくりと脇の茂みの中に坐る。ポケットから煙草を取り出すが狼の顔を見てそれを遠くに投げる。少し遅れてライターも投げ込む。そのまま男は語り始めたのだが狼にはどんな言語で言われても理解ができない。時として言語など不必要な時があるものだ。男の顔には死相が宿っていたが狼は自分が食う運命にあるからだと理解していた。腹の中で地鳴りのようなうめきがして狼は唸る。子供の脈動である。狼が血走った目で身体をねじまげているのを男はつまらない目つきで眺める。太陽を見上げて何か呟いた。狼が呻きながらその日はそうして過ぎた。三日目になると狼の脳が餓死を訴え始めて苦しむが男はいない。戻ってきた彼の手にはハンバーガーが三つにぎられている。二つを男は瞬く間に食べ終えてしまうと残り一つを狼の近くに投げ込む。狼は男と物体を見比べて素早くハンバーガーを紙ごと丸呑みする。鼻に何か入ってぶしっと狼がくしゃみすると男が笑う。その途端に腹から何かが落ちていく感覚がして狼は目に見えて狂乱しはじめる。産まれようとしている。このままでは産まれ落ちた瞬間に古井戸の底に叩きつけられるだろう。狼は上がろうと下がろうとするが井戸は世界で一番固いものであり到底抜けない。男が見ている脇で狼は出産しようとしている。顔を振り腰を振り激怒の表情で腹の中を整えようとする試みは全て失敗する。何か己の中の大切なものが次々と千切れていく感覚に狼は身悶えして吠える。狼の中からはすっぽりと男が抜け落ち彼は横の狼をしげしげと眺める。やがて狼が唸り唸り唸り腹から下腹部そして下へとずり落ちていく。太陽は既に真上へとやってきていたが狼はその太陽を一瞬だけ呪わしいものであるかのように見上げる。一つが腹から下へとするすると降りて行き結局は飛び降りのような格好になって落ちる。一秒足らずで二つ目も落ちていく。音はしなかった。狼は太陽を見上げたまま上へとよじ登り男の全身と周りを一瞬だけ見回してから、全身を鏃のように細くして自身も古井戸へと飛び込む。やはり音はしない。男は一連の行動を見つめながら自身も古井戸を覗き込み、飛び降りようかと迷う。トラックの音が聞こえる。
『ノート』
そんなに言うなら教えてやるよ。お前の婆さんの話だ。全く、課題だからってそんなにせっつくなっての。まああいつはもうホームに入っちまってるし俺しかいないわな。とりあえず戦争から話すかね。俺も婆さんもあの頃はガキだったからなあ、毎日農作業やってたよ。ただまあ一回か二回くらい空襲が来たな。ただそれだけだった。ハハ、そうして戦争が終わってだな、とにかく俺は金を稼がんといかんかった。半分追い出される形で上京したよ。婆さんとはそこで会ったんだが婆さんはなんと家を逃げてきたって言うんだ。ここから先は誰にも言うなよ。婆さんが言うには自分の家が燃える姿が見えたって言うんだ。雨の日にな。あんまりにも鮮明なんでそれを家族に言ったらふざけんな莫迦と罵られてな、他の家も燃えてたからそれも言って狂人だと思われて結局家にいられなくなった。家の金を持ちだして逃げてきた。ちなみにそこな、ちゃんと燃えたよ。放火だったらしい。俺も最終的にはそれを信じることにしたんだがそれは婆さんに俺の足の骨が折れるって言われてからさ。二週間したら仕事してる最中に事故があって折れたよ。どうにもムシャクシャして一発ブン殴ってやろうと思って占い屋に行ったんだが店じまいするところでな。あまりにも当たるからみんな婆さんの仕業だと思って殴りに来るんだと。泣きながら婆さんが言うんで俺はこらえきれなくなってな、なら俺んとこでも来いやと言ったよ。婆さんといろんな話をした。未来に関する話をたくさんした。俺たちが結婚する。お前の親父が生まれる。その後お前も生まれる。妹も一ヶ月前に生まれたろう。あれも婆さんは予見してたよ。それに婆さんは国とか社会のこともえらい心配してた。大事件とかテロとかああいうのだ。全部分かるってのは恐ろしいことだと思ったよ。なあこのノート見てくれ。中は絶対見るなよ。これな、婆さんが自分の認知症を予見した日に書いたものだ。何が書いてあると思う。大きな事件とか事故とかテロとか災害が起こる日がな、全部書いてあるって言うんだ。俺は好奇心が強いから最後だけ見ようとしてな、婆さんが本気で怒ったのはあれが初めてだ。多分その日に終わるんだろう。国かもしれんし人類かもしれん。宇宙かもしれん。婆さんはそういうの全て抱えてホームに入っちまった。忘れて頭がくるくるぱーになった方が良いわな。俺はもう駄目だ。あと二月したら癌になるって婆さんに言われた。すぐ燃やせば良かったがどうしてもできなかった。何かあったらそのページだけ開けて欲しい。それを見て正しかったらな、ああやっぱりおばあちゃんは正しかったとお前だけは思ってほしいんだ。婆さんはいつまでもペテン師で詐欺師で自分が災いを準備したと思われた占い屋になってるんだ。だからな、お前にだけは婆さんが正しいことを知って欲しいんだ。証明して欲しいんだ。世間に広めなくても良い。ただ一人だけでも知っておいてくれ。
『タイムトラベラー薫』
薫は過去に戻ることにした。これ以上現代に住んでいたくなかった。ちょうど裏庭にワームホールがあったので移動も容易かった。過去と未来のどっちを選ぶかで悩んだが、未来に希望がなさそうに思えたので過去にした。藥や食べ物を十二分に持っていけば楽しく暮らせるだろう。薫は必要なものを詰め込むとワームホールに滑り込んだ。
薫がやってきたのは戦後日本の地方都市だった。ニイガタというらしいが田んぼが多い。県庁所在地の片隅に潜り込むと毎日かっぱらった自転車で周りをサイクリングした。安全に気をつけながらシナノガワで水浴びをしていた辺りでそういえば公害があるじゃんと思い出した。慌てて服を着ると薫は荷物をまとめてワームホールに飛び込んだ。
次は一八〇〇年代のイギリスだった。とにかく食べ物が甘くて美味しい。幸いにも薫は英語の授業を受けていたので大きな貴族のお屋敷で珍しい黄色人種として雇ってもらうことにした。ロマンスはないかしらと期待していたが汚い格好のジェントルマンが行き来するだけだった。だが時計台やクリスタルパレスは出来が良いので写真に収めた。これならここに安住しても良いかしらん、と思っていた矢先に貴族の家が破産した。仕方なく社交界をブラついていたが薫はイエローイエローと囃し立てられるのでうんざりした。
金目の物をあらかた頂戴すると薫はまたワームホールで移動した。今度は二二〇〇年代のロシアだ。町中をとにかく軍用車が行き来しているが飯は口に美味しい。。そこで薫はコーリャと仲良くなった。週に一度は酒を飲みフラフラになった薫をアパートに連れて行ってくれる。そのうち生活が単調になり暇になってきた。ある日コーリャに呼び出され、川べりのカフェで諭された。薫、キミの居所はここではない。キミは日本人だと言うがそうではないのだろう。それにキミはいろいろな所を出入りしただろう。顔にはそういった汚れがこびりつくものだ。キミは元の環境から逃げてこっちに来たのではあるまいか。転々としているのではないかね。もしそうだとしたら、薫。キミはキミの現実に戻って、それと向き直らねばならない。僕も革命の中で様々な人を見た。キミみたいな人もたくさんいる。さあ、ここの支払いは僕が持とう。キミはもう帰る潮時だ。じゃあまた。さようなら。
こうして薫はワームホールを通り二十八世紀の月へと戻ってきたの。全て処分される前に戻ってきたらしく、机の上にはカレッジ卒業後の就職斡旋リストが載っていた。どれも未来予知システムによって前途はないと見限られた企業だったが薫の能力ではそこしか入れる所がなかった。希望とは縁遠いものだったがコーリャに諭された通りに生きなければならない。「あーもう!」薫は口にしてからリスト相手への履歴書を書き始めた。いっそ一九〇〇年代に骨を埋められれば楽だったが、ここで産まれた以上はここが薫のホームだ。
『キギロギ』
イレードの浜辺にキギロギが流れ着いてきた。キギロギというのは遥か昔の古王国があった時代、まだ魔術や魔法を人々が持たなかった時代に海を渡る手段として用いられた海豚の種類を指した。だが今では大戦争のせいで殆ど絶滅してしまいこうして野生種が見つかるのは稀なことだった。目にした学者は喝采をあげて喜んだが問題はキギロギが生きていく方法だった。キギロギは本来浅瀬に来ない生物なのに、こんな浅い場所にやってきたのだ。キギロギの腹には大きな傷があったのでおそらくは外敵にやられて逃げ込んだのだろうと思われた。傷は大きくキギロギが助かる見込みはない、と獣医は首を振った。
最初のうちにキギロギは暴れて触ろうとする子供たちを追い払ったのだが、そのうち親たちがモリを持ちだしてくると大人しくなった。そしてじわじわと海面に己の血が滲んでいくのを見たキギロギはやがて自分の死を悟ったのか人間たちが触るのを受け入れた。自分の元にやってくる人類の掌を甘受するキギロギの目はもう諦めに満ちていた。
ある夜のこと、寝ずにキギロギの番をしていた獣医はこっくりこっくり船を漕いでいた。少しして目覚めた彼は視線を周りに向けたが誰もいなかった。キギロギに目をやった彼はキギロギが尾びれを海面に出してふうわりと移動するのを見てやがて近づいた。キギロギは焚き火から近づいてくる男を見ていたがやがて自分からも近づいた。獣医がキギロギの身体を見下ろすとその傷口から金色の鱗粉が流れ出しているのに気づいた。キギロギからこんなものが生まれた記録などないので獣医は慌てたが変化はなかった。夜が明けてキギロギが弱ってきた。また夜になった。獣医はやはり焚き火の番をしていたがキギロギの身体から再び鱗粉が流れだした。今度はその鱗粉は海面に浮き上がり小さな卵状の外見をしていたが小虫となって飛び始めた。白色の星空の中に黄金の虫たちが柔らかく浮いていくのを見るのは不思議だった。おそらく虫になったそれらは森に山に王都に住み着くのだろう。やがて彼は理解を放棄してキギロギの傍に座り込んだがそれは自然界には到底己の知り得ないこともありえるという知見によるものだった。
朝になると獣医は限界を感じて近くの小屋で眠ることにしたが、眠って一時間すると村人が飛んできてキギロギが死んだと叫んだ。獣医が戻っていくと真っ白な腹を見せて砂浜に横たわるキギロギがいてピクリともしなかった。もう駄目だった。獣医はキギロギの死亡を宣言して身体は王都で引き取ると村人に告げた。嘆く村人たちを背に運搬隊は出発してその中に獣医もいたのだが、彼の懐には密かに切り取ったサンプルを入れた瓶があった。夜になって彼はそのサンプルからあの金色が飛び立たないかと期待のこもった目で見つめたが、兵士や学者が歓談する脇で眠るキギロギの身体には何の変化もなくただ動物の死体は静謐なまま自身の死を体全体で受け入れていたのだった。
『魔法少女』
武雄の元に魔法少女召集令状が来て四日が経つ。居間の机の上にある書類をどうするべきかまだ決めかねていた。散歩から帰ってきて仏壇にお参りをした武雄はもう一度書類に目を通した。
――世界中にカイジュウ及びそれに類する害獣が発生して十年です。地球存亡を懸けた危機の中で、我が国が周辺諸国と協力して開発したのが、魔法少女型兵器を開発することでした。この魔法少女は人間の希望・夢・心を動力として起動する特殊な兵器で、精神兵装を使って街を守り敵を倒します。カイジュウを打倒できることができるのは魔法少女だけです。私たちは地域の皆さんの力を必要としています。
ご協力お願いします、という文章で書類は締められていた。これに参加したものは例外なく死ぬ。カプセルに入れられた者は魔法少女の動力源に利用されそれが終われば埋葬される。実質的な生命使い捨てシステムに忌避するものが後を立たないのも実情だが書類から逃げたからと言ってカイジュウから逃げられるわけではない。既にカイジュウによる死者は三億を超えており退っ引きならない状況であった。
禁煙した筈の煙草を武雄は吸いたくなった。家族はいない。武雄を置いて欧州旅行を楽しんでいる最中にホテルごとカイジュウに踏み潰された。書類を抱えて縁側に出た。セミの音がした。写真の少女はツインテールを結って幼気な顔をして片手にステッキを抱えている。孫娘にどこか似ていた。自分がこれの材料になるなど信じられない。サインをして役所に提出してその足で研究所行きのバスに乗ってカプセルに入れば全て解決する。あとは武雄の命を利用して生み出された魔法少女とやらが憎いカイジュウを倒すだろう。
外を見た。カイジュウを生み出したらしい空には太陽が一つきりで車の走行音が聞こえた。孫と家族の顔を思いながら雲を見ているとそれっぽい形になった気がした。どうして死ぬのかな、と彼は思った。これを抱えながら生きるのは駄目なんだろうか、こうしたものを持っているのはおかしいのか。思いは風に吹かれて消えた。
武雄はその日夢を見た。浅い眠りの中で彼の目の前には書類通りの魔法少女が立っていた。かわいいステッキを抱えてヒラヒラした服を着た彼女は元気だった。おじいちゃん! 私、生まれ変わったんだよ! こんな素敵な洋服をもらってね、みんなの役に立てるの! スゴイでしょ! 武雄は突っ立ったままただ久しぶりに聞いた孫の声によって泣いた。家族が死んでからはじめて流す涙だった。皮肉なことに魔法少女が幼い声で笑い華麗に舞い踊るのを見る度に武雄の悲しみは深くなり、少女が力いっぱいダンスを踊ると武雄はいよいよ身を縮めて身も世もないとばかりに号泣したのだった。
翌日、武雄は書類にサインをした。自身の名前の線を書き終えた直後、彼は事切れた鳥のようにそっと息をついたのだった。
『第二』
ある国に船があったがその船は役目を終えて解体された。船はパーツに分けられ再生に回される筈だったが作業員の一人が黙って持ち帰った。小金に替えて子供用品の足しにしようと思ったのだ。それがバレた作業員は懲戒免職になったが売り払った部品は見つからなかった。鉄くずは加工され変形し銃器として銃砲店に置かれた。少女がそれを買った。店主は銃砲携帯証を胡散臭げに見たが結局少女に銃を売った。
少女は狩りを好んだ。幼い頃に父が冗談で鹿狩りに連れて行ったらハマったのである。父はそのうちに膝を壊して外出が難しくなったので、少女が一人で狩りに行く。気楽に山に入って眠っている時、少女は海の夢を見た。潮風があまりにも濃く水中を泳ぐ魚が異様にリアルに見えた。目が覚めた少女がもがいたがそこはテントの中だった。目が冴えたのでテントから出ると二本角のユニコーンが立っていた。
お伽話の生き物が眼前にいた少女は目をこすったが消えていかなかった。とりあえず餌でもやろうかとテントに入ったが戻るとユニコーンは消えていた。幻だったかなと思いながら少女は寝直した。次の日は朝から狩りに勤しんでウサギを二匹撃った。だが昼飯用に大きな鹿を追いかけている最中に泥の斜面から滑り落ちた。滑落して意識を失った少女は海の夢を見た。気が付くと夕方で目の前にまたユニコーンがいた。(海がここに何の用だ)声がしたが見回しても誰もおらず、ユニコーンを見やるとゆっくりと頷いた。手の中の銃器が震えた。
(二千年以上も経ったのだ、そろそろ新しいのが生まれても良いだろう。ゆりかごも連れてきた)声あるいは重低音の金属音がするとユニコーンが鼻を鳴らして少女に擦り寄ってきた。ぽかんとしている彼女を仰向けにしたユニコーンは銃に顔を近づけ一舐めした。そのまま角を押し付け黙っていた。少女が目を白黒させていると(今は起きている時ではない)と声がして少女は意識を失った。
目を覚ました少女は山の麓に倒れていて明け方だった。よく分からなかったが家へと帰り、一年くらい経って吐き気とむくみがやってきて医者に行った。産婦人科を薦められて見当はついたが理解できなかった。経験をしたことがなかったし医者の検査も少女の言葉を裏付けた。やがて誰もが首を傾げる中で産まれた赤ん坊は産まれて三日目で言葉を喋った。少女と両親が見守る中で子どもは育ち立派な青年となり学者となった。世界中を旅して回る中でいつのまにか彼は宗教の創始者となり、中年となった彼女のもとに彼は新しい福音として帰ってきた。世界に混乱を巻き起こしながらも彼は勝利しつつあった。やがて少女だったものは夢を見たがそこでは船の上にユニコーンが乗り蹄を角でほじくりながら揺られていた。今回はそうした和合で良いだろう、とユニコーンが言うと船がぼおおと汽笛を鳴らし、その瞬間彼女は息子の横で目覚めながらこの子の父は誰だろうと思うのだった。
【終わり】