尾崎と漱石―「オフィーリア」から考えるGGの再始動―3/3
3.「伝説」を棄てること
「生きるためには必要ない伝説だった」――「オフィーリア」の一節は、このような理解の上に立ってはじめて尾崎雄貴というミュージシャンの大きなブレイクスルーとして了解される。尾崎はそれまで自らが用いて来た伝説、換言すれば物語の世界とこの時点において一種の訣別を図っている。先日のライブでの発言を踏まえれば、それが彼のごくパーソナルな問題を扱うところのwarbearの詩に書きこまれたことはごく自然であるし、だからこそこの一節に懸けられた意味の大きさがうかがえる。「伝説」を「生きるためには必要ない」と退けることで新たに歌うことを許されたであろう多くの「生活」がそこにはある。私たちは驚いた。彼の詞に「ウェイパー」が出てくるとは思ってもみなかったからだ。それでも、彼はとりもなおさずそれを「人間賛歌」だといって憚らない。ここでその詩の是非を問うのではない。そのように「伝説」を脱いだ「生活」そのものが歌われることじたいにここでは意味を見出したい。春の寝ざめのようなのびやかな身体には、よく磨かれた窓から久しぶりの温かな陽光が差してくる。隣の部屋から漂ってくる湯気には甘いミルクの匂いが混じり、そこではじめて寝起きの身体が腹を空かせていることを知る。そうして腹の底からふつふつと湧き上がるような喜びを、そこでは命と呼ぶ。
月を見るためではない、「生活」の場たる部屋の窓はよく磨き込まれ、そこに「伝説」というすきま風の入り込むことを許さない。
おわりに
火花を散らすエゴイズム
このような観点から、私たちはGGの再始動をどのように受け止めなければならないのだろうか。
再び漱石の話に戻るが、個人的には彼における闇の系譜は最期まで途絶えたとはどうしても考えられない。たとえば、『それから』(1909)の代助が「ぼくの存在にはあなたが必要だ。どうしても必要だ」と愛を告白する時点においてあるいは漱石もまた「生きるための伝説」を破棄したのかもしれないが、一方かつて曇天の下持ち帰って来た憂鬱は伏流としてみなぎり、その後のエゴイズムをめぐる問題へと滑り込むことになる。「先生」は自死し、「一郎」や「健三」たちは妻を愛することができない。「孤独とは同じ部屋で同じ死を待つ二人のよう」と歌った尾崎にとっても、切実すぎる差し向いの関係はいずれ鈍い火花を散らし、胸のやけつくエゴイズムに傷つきあう運命を辿るかもしれない。愛を歌うということは、必然どこかで一歩間違えれば刺し違うという危うさを引き受けることでもなければならない。その意味では、「伝説」を棄てることの、あるいはあくまでヒューマニスティックに生きることの重さが、万年雪のようにこれからの詩にのしかかってくるだろう。
汐の満ち引きのように
また、「伝説」あるいは「物語」のほとんど暴力的ともいってよいその引力は決して減衰するのではなく、衛星――月としてのそれがミューズとして彼の傍らにある限り、志向は「汐」の満ち引きのようにまたぶり返されうるということも、ひとつの宿命ではあろう。この点について、私たちはそれを見てみぬふりをしてはならない。詩の言葉は祝詞ではなく呪詛のそれに近い。既に挙げた「SIREN」はもちろん、その後の創作についても、極端にジェンダー化された聖女志向がその創作の確かな根源であることは確かだし、それは先述の00年代オルタナティブ・ロックの一つの系譜学であると同時に、他ならぬ漱石その人が「恐れない女」としてリアリズムの鋳型に溶かし込んだベアトリス、功罪余りある近代の発明ではなかったか。
GGの再始動――彼が詩を書き、私たちがそれを読む限りにおいて、私たちはもちろん後塵を拝する立場にしかないのだが、ここでひとつ確認をしておきたいのは、これまで見てきた通り、あるいは熱心なファンであればより深い直観ともいうべき階層において、彼の詞がポップではなく、従ってそこに小市民的な健全さを強いてはならないということだ。伝説あるいは物語への志向は「青い血」のように今も白い膚の下を通っており、それをこそ彼の天稟と呼ぶ。詩は原油のように、内省をツルハシと恃み掘り当てるものではない。ましてや頭に汗かきひねり出すものでもない。詩は詩人に先立ってそこで待っている。詩人の歩みに苦しみが伴うのならば、それはそこまでの道程、切り立った嶺に穿たれた世界の極点への登攀の過程においてはじめて味わわれるところのものなのだ。そして小林秀雄の言葉を借りるなら、その遙かな詩の在り処までどこまでも「天稟が彼を引摺っていく」(『文芸春秋』1941.6)のだ。
ごく個人的なことをのたまえば、この頃彼自身それを恐れているふしがある。首輪を繋いだ獣が何らかの表紙に目を覚まし、頸をもたげるのがどれほど怖いというのか。そして、それはGGあるいは尾崎雄貴という詩人を受ける私たちが暗に彼に軛を負わせた故の結果ではあるまいか。私はそれをこそ詩人を潰す業と恐れる。詩はその美の前に愛も生もはねつける。愕然とするほどの現前としての詩は不定形の世界に打たれる不朽の楔である。
ファンがファナティックであってはならない。それを受ける者として、自らの言葉の小刀を周到な魔女のようにつねに磨き続けなければならない。それこそが詩人とともに老いていくということなのであり、歴史に立ち会う者だけが味わうことのできる無上の喜びなのである。
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