見出し画像

尾崎と漱石―「オフィーリア」から考えるGGの再始動―1/3

生きるためには必要ない伝説だった

warbear「オフィーリア」(2022)

はじめに

 warbearの新作『Patch』は不世出の名盤となった。前作『warbear』からおよそ5年、一種の古儀式派じみた厳格さ、真摯であればあるほど飢えていくような殉教の身構えは古い伏流としてみなぎり、しかし全体として今作を覆うのはさしあたって彼が「愛」と呼ぶことにしている温かな切実さだ。ニ枚を比べ聴くとき、私たちは詩人の隔ててきた時間の長さを思い、傷ついた熊の永い眠りというものは案外息苦しいものなのかもしれないと、あえかな想像の枝を広げることになる。
 先に掲げたのは「オフィーリア」の一節。私たちはこの題と、それから詞を読み、思わずそこで立ち止まらざるを得ない。めいめい色も大きさも違う古した鞄の底をひっくり返し、既に通り過ぎてきた言葉や色彩、あるいは旋律を再び思い出そうとする。手つきは重く、仕事ははかばかしくはない。深い水槽に沈めた口をきかない魚のように、記憶は掌に身を預けながらも自ら顔を出そうとはしない。ただ、それでもそいつをどうにか引っ張り上げて日向に晒してやれば、ああ、こんなに綺麗な色をしていたのかと息を飲むほどの、鱗の美しさに目を奪われるのもまた、確かなことだ。

1.「オフィーリア」をめぐって

1-1.『草枕』と「オフェリヤ」

 尾崎が参照したであろう絵画について、屋上屋を架すのは止そう。オフィーリアというモチーフをめぐってここで取り上げたいのは、文人・漱石の「草枕」(1906年)だ。
 言ってしまえばこれも私の独創ではない。「草枕」では「オフィーリア」の絵が明らかに名指されて作中に現れる。

 枝繁き山桜の葉も花も、深い空から落ちたままなる雨の塊を、しっぽりと宿していたが、この時わたる風に足をすくわれて、いたたまれずに、仮の住居を、さらさらと転げ落ちる。馬は驚いて、長い鬣を上下に振る。
「コーラッ」と叱しかりつける源さんの声が、じゃらん、じゃらんと共に余の冥想を破る。
 御婆さんが云う。「源さん、わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前に散らついている。裾模様の振袖に、高島田で、馬に乗って……」
「そうさ、船ではなかった。馬であった。やはりここで休んで行ったな、御叔母さん」
「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に斑が出来ました」
 余はまた写生帖をあける。この景色は画にもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
 花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速取り崩す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳く彗星の何となく妙な気になる。

夏目漱石『草枕』(1906)

 那美さんという娘に「オフェリヤ」を見出した「余」は画家である。画家の仕事は自らの住まう世を浮世としてではなく「風景」として生きることであり、それによって苦悩は取り払われるというのが芸術家たる「余」の一つの生の倫理である。

 しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲する了見も起らぬ。ただこの景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。

同上

ここでその倫理の是非を問うつもりはない。小説は次のように閉じられる。

「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。

同上

 那美はこの時点においてバフチンのいうところのポリフォニー的人物としての資格を失っている。いや、狡い言い方はよそう。那美の人格はほかならぬ「余」によって奪われている。むろん、ここにはジェンダー化された聖女志向もまた差し込まれている。「余」は女を一種の聖像として見、そこに「画」を見出す。改めて指摘するまでもないが、ここには見る主体と見られる客体における無機的なまなざしの倫理が働いている(使い古された雑巾のような匂いのする言葉だ)。

1-2.「SIREN」のまなざし

 さて、芸術をめぐるこのような「伝統」は――その濃淡こそあれど――残念ながら現在にまで息づいており、表現において尽きぬ泉にさえなっている。そして、ほかでもなく2000年前後のジャパニーズ・オルタナティブ・ロックは、そのような伝統を色濃く受け継いだ表現ジャンルであったと考えてよい。たとえばそれをもっとも直截な形で、文学への志向とともに詩作に表したのが木下理樹であったし、ここで問題とするところの尾崎雄貴という詩人もまた、あるいは彼もまた文学経験を通してこの影響を色濃く受けた一人である。あえてここでその具体例を挙げなくても良いだろう、出発点としての「SIREN」を思い出してみるがいい。

声をかけても聞こえていない
そんなところが僕は嫌いで 好きだった

Galileo Galilei「SIREN」(2011)

外で月を見ようよ 僕はそれを見ているよ
もうそれだけでいい 本当にそれだけでいい

同上

 取りなされるのはコミュニケーションとは呼べないコミュニケーションであって、「僕」はそこにひとつの救済を幻視している。まなざしがかち合わないこと、「それだけでいい」というのは決して譲歩ではなく、「君」にたいして「僕」がそれをしか求めていない、客体としての物言わぬ聖像を求めているという心性の表れに他ならない。激しいイコノクラスムに遭った敬虔な信徒たちが自らのそれをしてイエスの人性を描いたのだと主張しても、イコンはどこまでも装飾的でしかないのと同じことだ。尾崎はその心性をある程度保持しつつ、ときに先行する芸術作品をも呼び込む形で自らの物語世界の形成に執心していった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?