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昨日の夏のにおい



今?と思われたことでしょう。
実は同題で7月ごろに書き出していた記事でした。
公開すればという思いはあったのですが書き切ることができずに一度全てを消しました。

月日は流れて。
とある小説を読んでいたところ、引用されていた詩を読み、その記憶の引き金が弾かれました。
まず考察というほど高尚なものではなく飽くまで個人の解釈をはさみながら見ていければなあと。
今回の記事に当たって先の公式動画、及び下記の考察noteを参照しました。
(歌詞も引用されて書かれてあるので私のより読みやすいです。お先に読んで。)

やはりと言っては興が醒めますが、いなくなってしまった人への想い、より親しく表すなら「アイドルとオタク」のような関係性に近いものを見出すのが自然だなあと。

タイトルの
Last Summer Daydream
通称LSD

英語のニュアンス的には「最後の夏」というよりは「去年の夏」というのが合っていますかね。
Daydreamは白昼夢、幻想といった意味合いです。
全体の雰囲気からして、「君」の幻想を追いかける主人公というのが想像しやすいかもです。

さて、順を追って、時には遡って、歌詞を見ていきたいと思います。

まず、はじめに気になったのは散りばめられた色の表現。

“緑“の龍
“赤く“燃える火曜日
“ピンク“のくらげ

“虹色“の目した猫
“銀色“の空
“赤い“龍

多彩ですね。ジャケットのように。
禍々しいような彩り豊のような。
冒頭から見ていくと、
一般的に想起される龍といえば緑ではないでしょうか。
アニメのイメージによる影響が大きいと思いますが、
龍といえば中国の象徴というイメージもありますね。
幸運や幸福の象徴で、龍は色によって意味があるようです。
緑は「自然」や「調和」、「静かさ」果てはこの地球自体を表すというものらしいです。
また緑(青)は東の方角。
気がつけば世界が曲がっているほどの暑さ。
地面から伸びる蜃気楼はくらげのように揺れ、空には龍の影が見えるような、そんな燃えるように暑い火曜日。
これは本歌取りといいますか、元ある曲をうまく使ったのかなと思っています。
夏に見える騒々しいほどの花といえば向日葵🌻か。

そんなありふれた夏の景色も、「君」が気づかせてくれた。
拡大して解釈すると、自分が見ている世界がいかに狭いか、他人の考えや言動によって知らされることは多々あります。
それほど、君と出会ったことで世界は彩りのあるものだと気がついた。

「だから」
手を振ってさよならをする。
そんな君にお別れをちゃんと告げる。
やや腑に落ちない部分はあるでしょう。
どうしてそのまま共にいることはできないのか。

2番ではシーンが変わって、少し時が進んでいるように思われます。
空には雲が一つもない。
快晴の様子を思い浮かべますが、雨がすっかり上がった後と、このあとに続く歌詞から想像しました
猫の目には虹が映っている。
それを捉えようと空を見上げたときにはもう見えなくなってしまっていた。

僕は「終わりを迎えに行った」
というのは「君」の元へ行こうとした。
雲が一つもない空は、僕の心の迷いが晴れ、決心がついたことを暗に示していた。

「でも」
夏の蜃気楼のように、「君」の影を見た。

「だから」
“手を取って 君の元に戻されてった“
“消えたはずの君にすがってしまった“

1番のサビで、手を振って別れを告げたつもりだったのに、君の影を追ってしまった。

歌詞中の
「最高」とは君に出会えたこと、
「最低」とは君と会えなくなってしまったこと。
かな。
その鬩ぎ合いと葛藤のなかでまた君を求めていた。

二番の世界観はYOASOBIの「夜に駆ける」に描かれたようなものが想像に近いと思います。
そちらへ行ってしまえば、もう楽になれる。
幻想を追って苦しむこともなくなる。

赤い龍が銀色の空に飛んでいる。
赤は幸運や幸福を表すと共に、その昔死者の名を血を使って書いていたことから別れを告げるのに用いられることもあったそうです。
銀は汚れのない純白を表し、雲一つ無い空に呼応しているようです。

君に会えない絶望のすぐ側にある、君の元へいけるという希望がそこにはある。

その極限状態が“「一瞬の発想」で散った“
一番のサビにも登場しましたが、そこでは文脈的に「(君の)発想」でした。
それはどんなものだったのか。
正確には君の声ですが、「君」がおそらく「僕」へと何か言葉を遺したのでしょう。
「ほら、また行くよ」
それを思い出し、プツッと切れるように現実に引き戻された。

「だけど」
また手を振ってさよならをする。
赤い龍は銀色の空に飛んでいった。

“昨日までのここにない空が“
この解釈が仕切れなかったのですが、
“赤い龍が“
というフレーズが
“赤い龍は“
に置き換わっています。
ニュアンスと音の微妙な違いで聞き逃していました。
「は」と「が」の使い分けは新情報か旧情報かによる違いです。
英語で言えばaとthe程のそれがあるのかはわかりませんが、同じ助詞でもその種類が違っていて、この場合「赤い龍」が既出であるために後の歌詞では「は」になっていると、まあ文法的な説明はそうなるのですが、その微妙な差異に敢えて拘ったところになにか意味はあるのだと思います。

で、一番の別れを告げるところの腑に落ちない違和感の正体なのですが、この詞のあるいは題材になったかもしれない中国の詩についてご紹介します。

「再別康橋」徐志摩

中国出身の作者が留学先のケンブリッジへの想いを綴った詩。
数度訪れた最愛の地をひとりで静かに訪れ、静かに別れを告げる。
故郷ではないが、郷愁に似た思いは、今の自分を自分たらしめたものへの最大限の感謝や尊敬の念が込められていたように感じます。

2024年8月のステージに彼女の姿はなかった。
去年の夏のこと。
来年は一番大きなステージに立っているのだろう。
そう思わせてくれるようなステージングとパフォーマンス。
その儚くも散った美しい花の芽はやがて新体制、新メンバーを迎えたRingwanderungに尚も継がれていました。

私がいなくても──
そう思わせるようなMYONからのメッセージと想いをのせて龍は空へ。

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