言葉はひとりでに、頭の中へ流れ込んできた。
その本は、大学への通学路ちかくの商店街で輸入ゲームを売る店で、洋書の棚にひっそりと並んでいた。
平積みされていたわけでも、新聞雑誌で話題になったわけでもない。そもそも当時、受験英語は学んだが洋書に興味があったわけでもない。
気まぐれに棚から抜いてみたら、表紙に爪痕を模した穴が開いていて向こう側に狼と人の顔が見える、という凝った装丁だったので、それにつられてぱらぱらとページを繰ってみた。
どうやら巻頭は短編小説のようだった。
それがテーブルトークRPG『Werewolf: The Apocalypse Second Edition』ルールブックだった。
なんだ、分厚いハードカバーだけど受験英語でもけっこう読めるじゃないか、と思った。しかも入試予想問題の長文読解よりずっと面白い。
大学に行くためにいやいや勉強した英語が実際に役立つことがうれしくなって、どんどん読んだ。
その巻頭小説では、人狼に変身する力にめざめた少年が、老いた語り部から人狼種の歴史を綴ったかけがえのない記録を託されることになる。
そのとき確かに、私は小説内のブライアンと同じ体験をしていた。
読むことと翻訳することはあくまで別の話だが、ごくまれに、こんな風に、原文を読んだ瞬間、訳文が完成された形で脳内に展開される時もある。
この本に登場する人狼種は、超人的な能力をもちながら人間としか繁殖できないのだが、それゆえに古代には強い伴侶を得ようと人類の中で弱い者、病んだ者を夜な夜な狩り殺した。今ではその過ちを悟り、正体を隠し人間に紛れて暮らしているが、人間は今なお遺伝子レベルで刻まれた恐怖の記憶から人狼を無意識に警戒するために、社会のアウトサイダーになりがちだ。
ブライアンが受け継いだ《銀の碑》はそのできごとを語るくだりをこう締めくくっている。
当時思いついた翻訳を書きとめたワープロ原稿は引っ越しやら震災やらで散逸してしまったが、今でも原書を見るだけでどう訳したか正確に思い出せるからおそろしい。
もっともこれは(少なくとも自分は)めったに遭遇できない幸運なケースだということは再三強調しておきたい。むしろ意味はわかってもうまく言い表す言葉が出てこないと床をごろごろ転がって悶えている時間のほうがはるかに多い。
例えば、件のWerewolf: the ApocalypseはテーブルトークRPGなので、せっかくだから身内で遊んでみようと私家訳を作った時のことだ。プレイヤーがそれぞれゲーム世界での自分の分身となるキャラクターを作成して遊ぶのだが、そのキャラクターの能力値のひとつに「Rage」というのがある。
これ自体は特に難しい単語ではない。学習英和にだって載っている。なんならGoogle翻訳でもちゃんと「怒り」と訳してくれる。
問題はこれが、ゲームシステム上は特殊能力を発動させるためのリソースのひとつであり、巻頭小説の中では人狼種の力の源となる破壊衝動であり、獣性の解放と抑制というゲーム全体のテーマを象徴するキーワードでもあり、そのすべての文脈にあてはまる言葉が必要だったという点だ。
「怒り」では軽すぎる。「レイジ」では小説の文脈にそぐわない。「憤怒」はゲーム中にプレイヤーが連呼するには今ひとつ語呂がよろしくない。想像してみてほしい、人狼が鉤爪をふるって血みどろの死闘を繰り広げる場面を再現するためにプレイヤーが口頭で交わす会話が「ふんぬ1点使います」「友を傷つけられた怒りでバーサークしなかったかどうか、ふんぬで判定して」「このターンでそいつを倒しておきたいけどふんぬが足りない…」などとなるのだ。私は個人的に「ふんぬー!」などと連呼したくはなかった。
連日さんざん悩んだあげく、ひねりだしたのが「業怒(ごうど)」という造語だ。
後に改定版(Second Revised)が『ワーウルフ:ジ・アポカリプス日本語版』として出版され、なんの因果か自分がその翻訳者となったときにもこの訳語を使うことになった。
いまだに時折、その選択について考えることはある。そしておそらく数千回目にはなる思考のループをまた一巡りするのだ。
ちなみに冒頭で引いた小説に出てきたブライアン君は、『ワーウルフ:ジ・アポカリプス日本語版』の巻頭小説にも立派に成長した姿で再登場している。
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