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【読書】悪とは何か?/「エルサレムのアイヒマン」から

悪と言えばダースベーダーにようなキャラが頭に浮かぶ。しかし悪とはもっと、凡庸で我々の日常に潜みうるものだという。ドイツ人政治哲学者アーレントによる近代社会における悪とはなにか?というテーマに取り組んだ一冊。

記事要約

  • ナチスドイツ下でユダヤ人移送局長官を勤めたアイヒマンの裁判@エルサレムを分析。

  • 予想に反して、ごく平凡な初老の男アイヒマン。精神鑑定でもいたって普通という分析結果。それに対しどうしてもモンスターとして極刑に処したいイスラエル。そんなアイヒマンをただの道化だという著者。

  • 全体主義下で組織的に実施される悪は、一般的なイメージとは異なり凡庸で日常的である。




1.本の紹介

米国の政治哲学者ハンナ・アーレント(ドイツ出身ユダヤ人、1906-1975)の著書で本のタイトルは「Eichmann in Jerusalem- A Report on the Banality of Evil」(1963年出版)邦訳は「エルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告」。

ポピュリズム、ファシズム、ナチズム関連に強い興味を覚えた時に手にした一冊で言わずと知れた名著。

著者のハンナ・アーレントのインタビューを発見したので下記にリンクを貼る。47分前後で、本書の話に少し触れている。

ハンナ・アーレントは、オットー・アドルフ・アイヒマン(1906-1962)の裁判傍聴するためにエルサレムに渡航。この時の記録および各種の資料分析をまとめた記事が、渡航を援助した「ニューヨーカー」紙に5回にわたって掲載される。その時の記事タイトル「エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」が、そのまま単行本として出版された。

なお、アイヒマンはナチス・ドイツにてゲシュタポのユダヤ人移送局長官を務めた親衛隊中佐。アウシュヴィッツ強制収容所へのユダヤ人大量移送に関わった。

元ナチスドイツ親衛隊のアドルフ・アイヒマンの画像
親衛隊時のアイヒマン

2.本の概要

1960年5月、アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)という初老のドイツ人男性が、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス郊外にてイスラエルの諜報機関モサドによって拘束され、9日後にイスラエルへ送還。約一年後の1961年4月、エルサレムにて裁判開始、アイヒマンはユダヤ人コミュニティーに対する罪、人間性/Humanityに対する罪、ナチス政権下での戦争犯罪などを含め15の罪に問われることとなる。

「Not guilty in the sense of the indictment/起訴内容の意味では、私は無罪です」がアイヒマンの言葉だった。ではどのような意味であれば、彼は自分を有罪と考えているのか?弁護側も起訴側も、そして3人いた裁判官さえも、この手の質問をアイヒマンに投げ返そうともしなかった。記者会見でアイヒマンの弁護士が答えたところによると、「Eichmann feels guilty before God, not before the law/法ではなく神に対して罪を感じている」とのことだった。事実、アイヒマンは法定にて、ユダヤ人殺害の罪については完全否認。起訴されるのであればむしろ、ユダヤ人の抹殺に加担しほう助した罪であり、それは人間の歴史上最大の罪であると言っている。

15の起訴内容は、アイヒマンがナチス政権下時に、あくまで自ら意図的に物事に当たったこと、そして彼の行い/Deedsの犯罪性について熟知し動機があったことを想定している。意図的に物事に当たったことは認めつつも、行いの犯罪性とそれに対する良心的呵責についてはむしろ、当時は上からの指示に従わなかった時こそ、良心の呵責を覚える状態だったと証言している(以下引用)。

… he remembered perfectly well that he would have had a bad conscience only if he had not done what he had been ordered to do - to ship millions of men, women, and children to their death with great zeal and the most meticulous care.

p. 23

裁判の際、6名ほどの精神科医がアイヒマンの心理状態や周りの人間に対する態度なども含め精神鑑定を実施。元々、危険でサディスティックかつ強迫的なまでの殺人願望に取りつかれたモンスターのような人間と考えられていたが、実はユダヤ人に憎しみもなく反ユダヤ主義思想/Anti-Semitismもない、生活態度も至極まっとうなごく普通の人間であるとの結論にいずれの鑑定医も至っている。裁判を直接傍聴したアーレント女氏自身もモンスターではなくむしろ道化、との見解を示している。

Despite all the efforts of the prosecusion, everybody could see that this man was not a 'monster,' but it was difficult indeed not to suspect he was a clown.

p. 52

事実、裁判中にアイヒマンは、当時の自分に残された代替手段は自殺のみだったと発言したが、これは真実ではないことがニュルンベルク裁判関連文書からわかっている。上からの実行命令を拒否したことによって死刑に処されたS.S.メンバーがいた痕跡は見当たらない。

獄中のアイヒマン

最後、アーレント女史は、エルサレム裁判の公平性/Impartialityの問題にも触れている。これは弁護側が喚起した問題で、アイヒマンの弁護士を務めたDr. Servatiusは、裁判の性質上非ユダヤ人の裁判官が判断を下すべきと申し入れたが、裁判官は単に、我々はプロの裁判官であり、証拠を吟味し職務を遂行することに問題ないとの回答だったとのこと。著者は、そもそもアイヒマンの有罪は裁判が行われる以前から内々に決まっていたこと、とのこと(以下引用)。

In Israel, as in most other countries, a person appearing in court is deemed innocent until proved guilty. But in the case of Eichmann this was an obvious fiction. If he had not been found guilty before he appeared in Jerusalem, guilty beyond any reasonable doubt, the Israelis would never have dared, or wanted, to kidnap him.

p. 209

1962年5月、検察側の起訴内容をすべて認める形で、アイヒマンに対する最終的な有罪判決が下りる。すなわちアイヒマンは上層部の指示であるユダヤ人の「最終解決」を忠実に実行したのではなく、彼自身がその上層部であり、彼がすべてを意図的に計画し、実施した極悪人という内容だ(以下引用)。

…it was now found that 'the appellant had received no "superior orders" at all. he was his own superior, and he gave all orders in matters that concerned Jewish affairs'; he had, moreover, 'eclipsed in importance allhis superiors, including Mueller.'…. the judges now stated that 'the idea of the Final Solution would never have assumed the infernal forms of the flayed skin and tortured flesh of millions of Jews without the fanatical zeal and the unquenchable book thirst of appellant and his accomplices.' Israeli's Supreme Court had not only accepted the arguments of the prsecution, it had adopted its very language.

p. 248

アイヒマンがエマニュエル・カントのカテゴリカル・インペリアルに言及する場面や、そもそもなぜアルゼンチン滞在時に姿を消さなかったのかについての自分の思いを語る場面など、他にも興味深い記述があるが、割愛。

3.感想/オピニオン

裁判プロセスと証言を、著者なりの視点から解釈し一つのストーリーとして描き出した本で、内容が内容だけに特にユダヤ人からアイヒマンよりだと厳しい批判を受けたらしい。私も、ユダヤ人にはうけないかもなあと、読みながら思った。アイヒマンは単に上層部の支持を実行しただけ、イスラエルでの裁判は出来レースだったといってるように聞こえてしまう。

親衛隊中佐&アウシュヴィッツ収容所移送担当と言うことでとんでもない極悪人を想像していたが、皆の予想に反し、実はただの凡庸な人だった。彼の調査書3600ページ近く熟読したアーレントは、読みながら良く笑わされたと上述した動画の中で言っており、アイヒマンを道化と称している。

実際私がアイヒマンのような状況に置かれて、上司から処刑を実行するよう指示されてしまったらどうするんだろうと考えてしまう。noと言えば何かしらの報復を受けそうだし(ニュルンベルク裁判関連文書上、そういったことが起きた形跡はないにしても)、もしかしたら命令を実行してしまうのだろうか?ファシズム/ナチズム的な感じでガッツリ優越/劣等民族観の概念を植え付けられたら、今考えればまっとうでないこともまっとうに見えてしまうのかもしれない。

そういう意味でも悪の凡庸さ/banality of evilというタイトルは秀逸。だが言葉足らずでもある。言葉を補うなら、ファシズムやナチズムのような全体主義下で実行される悪行というのは、組織的かつ日常ルーティーンとして集団的に実施される。ヒーローごっこの悪役とは違い、いたって凡庸なことに思える。そこに組織的な悪の怖さがあるということ。そんな組織的な悪においてアイヒマンは、モンスター的存在ではなく、むしろ道化にすぎない、そこを見誤ると危険といいたいのだと私は理解した。

平凡な人がなぜあのような悪行を行えるのか?平凡な人の皮を被ったモンスター論、ヒトラーとか上司が悪かった論等色々な考えが浮かぶが、どれもしっくり来ず違和感がある。そこをしっかりと掘り下げて、いかに組織的な悪の平凡さを見抜いたアーレントの洞察力はさすが。

最後に一言

概要としてまとめるのは不可能だったため、新鮮だなと思った部分を中心にまとめてみたが、それでもかなりてこずった作るのに手こずった。間違ったところがないかちょっと怖いのが正直なところです。

と言うことで気になった方はぜひ読んでみてください。とても興味深いです。

本記事は、あくまで私がポイントだなと思った部分のみ書き出しまとめているだけです。この概要記事がきっかけとなり、この本に興味を持っていただけたら幸いに思います。


併せて、他の記事もご覧いただけたら幸いに思います。


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