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日本随一の歓楽街、新宿と女たちの歴史

言わずと知れた日本随一の歓楽街、新宿。
ここを舞台にした日本の小説や映画が数知れないのは、この街に、作り手を魅了する何かがあるからでしょう。

かく言うわたしも、かつて『新宿遊女奇譚』という、短編連作を出版しました。
これを世に出してくれた当時の出版社が、のちに大手のKADOKAWAに吸収されたこともあるのか、紙の本は売り切れても増刷なし、デジタル化もされていません。
(ああ、わたしがもっと人気のある小説家であったならば!)

第一話は、江戸時代の宿場町「内藤新宿」を舞台にした物語です。

内藤新宿

歴史好きの諸氏には"今さら"でしょうが、まったく知らない人向けに。

「新宿」の名は「内藤新宿」からきています。
「内藤」とは、信州を治めていた藩主の名です。内藤家の広大な敷地と屋敷が、この辺りにありました。今の「新宿御苑」はその一部です。とても気持ちのいい公園で、桜の名所でもあります。

1699年、内藤家の土地に作られた新しい宿場、だから「内藤新宿」というわけです。

交通手段は馬と人の足しかなかったこの時代、江戸と各地を結ぶ、街道が発達していました。
内藤新宿は、そのうちのひとつ、信州に通じる甲州街道にありました。
現在、江戸は東京都に、信州は長野県に変わりましたが、甲州街道は今でもその名前のまま、重要な道路として活躍しています。
※JR新宿駅の南口を出たところにある大きな幹線道路、あれが甲州街道です。

今でこそ、日本随一の歓楽街であり、都庁を置く東京の中心地である新宿ですが、江戸時代は「江戸の西のはじっこ」でした。新宿より先は、もう江戸ではなかったのです。

場所を確認しましょう。東京をご存じない方は、ぜひGoogle Mapなどを見ながら読んでください。

JR新宿駅の東口を出て、新宿通りを四谷方面に進み、伊勢丹まで来ると、大きな交差点に出ます。ここに立つ交番は「追分おいわけ交番」という名前です。
「追分」とは、道が二手に分かれる分岐点のことです。江戸時代、ここで甲州街道から分岐して、青梅街道が延びていたのです。
※現在も、青梅街道は主要道路のひとつです。

そこから、さらに1キロメートルほど直進していくと、四谷四丁目の交差点があります。
追分からこの四谷四丁目の交差点辺りまでが、かつて内藤新宿と呼ばれた宿場町の中心地でした。

宿場町には、遊女屋がつきものです。
街道の両側には、通常の旅籠はたごだけでなく、遊女を置いた旅籠が、明治時代まで、20ほど軒を並べていました。

from PxHere

大正時代に入り、第一次大戦の好景気のために歓楽街の風紀が乱れると、遊女を置く店は、表通りから裏通りに移転させられました。ここで、遊女屋だけが集まる地域「遊郭ゆうかく」ができあがったというわけです。
現在、世界に名高いゲイタウンとなった「新宿二丁目」と、その東にある「新宿三丁目駅」界隈の飲食店街が、その地域にあたります。
その時点で、遊女屋の数は50軒以上ありました。

赤線地帯

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