GIベビー、ベルさんの戦争が終わるときー天涯孤独に生きてきた“混血孤児”が、73歳にして最後の肉親探しの旅に出る…
孤児院での約束
ベルさんは、物心ついたときには横浜の児童養護施設にいた。
1949年生まれの彼女は、連合国軍占領下の日本でアメリカ軍兵士と日本人女性の間に生まれた、いわゆるGIベビーだ。中でも、こうして施設に預けられた子供たちは「混血孤児」とも呼ばれた。
彼女の最初の強い記憶は、横浜から北海道へ移動する、列車での長旅だ。
施設のシスターが1人と、自分を含めて3人の白人系の混血女児が、二人掛けの椅子が向かい合ったボックス席に座り、20時間近く揺られて北に向かった。
着いた先は、札幌郡広島村(現北広島市)にある「天使の園」という、児童養護施設だった。
ベルさんはここで、18歳までを過ごす。その間に、母親が一度、祖母が一度、面会に来ている。
肉親と会ったのは、このたった二回だけだ。
母親が会いに来たのは、ベルさんが小学4年生のときだった。
薄っぺらい着物を着て、赤ん坊を抱いたその人は、息を呑むほど綺麗な人だったそうだ。
そのとき「迎えに来てほしい」と頼んだ彼女に、母は「必ずいつか迎えにくる」と約束した。
ベルさんはそれを信じて、何年も、何十年も、人生を生きてきた。
「死ぬまでに絶対にお母さんに会いたいの。会って、どうして迎えに来なかったのかと、訊ねたいの」
はじめてベルさんの身の上話を聞いたとき、彼女は最後にそう言った。
"踊り子"になる
18歳、高度経済成長期真っ只中の社会に出た彼女は、札幌で住み込みの仕事などをいくつかしたあと、キャバレーで働くようになった。「ベル」は、そのとき自分でつけた源氏名だ。
23歳、彼女はストリッパーになる。
わたしが子供の頃、再放送で観て夢中になったドラマ『傷だらけの天使』(1974)に、ストリップ小屋やヌードスタジオなど、夜の世界で逞しく生きる女たちがたくさん出てくるが、彼女はまさにあの中にいたのだ。
所属した札幌のプロダクションは、彼女を "外人" として売り出した。
名前も「ベル・クリスチーナ」となり、全国の小屋を回って多くの舞台でトリを飾り、大人気になった。
やがて、新宿の酒場で一人の男と出会い、同棲を始める。
大変なハンサムだったその男は、役者をしていたが才能はなく、ほとんどベルさんが食べさせていた。しかし、彼女が一度仕事中に警察に捕まって勾留されてもまったく面会に来なかったり、隠しておいた大金をごっそり盗んで出ていったりと、ヒモの風上にもおけない薄情な男だった。
そんなろくでなしも、一つだけベルさんにいいことをした。新宿三丁目『雑魚寝』のマスター、水島さんに引き合わせたことだ。
1978年にオープンした『雑魚寝』に、ベルさんは、男と別れてからも通い続けた。同い年の二人は、やがて兄妹のような、父娘のような関係になっていく(これについては、わたしにはそう思えただけで、ベルさん的にはピンとこないらしい。「あたしには兄とか父の感覚はわからないから、水島さんをそんな風に思ったことはない」と言われてしまった)。
最初の母親探し
30代後半にさしかかったとき、ベルさんは踊り子を引退した。
以来、さまざまな仕事に就いて生計を立てた。
そんな中で頭をもたげてくるのは、もう顔も覚えていない、約束を破った母親のことだった。
30代が終わろうという頃、仕事帰りに、ベルさんは新宿の駅前でナンパされた。相手はまったくタイプではなかったので、断る口実に「お金をくれるなら」と言ってみると、くれると言うので面白くなり、一晩だけのつもりでつき合った。
ところが、意外なことに彼はとても誠実で、翌日にも優しい電話をくれた。何度か会ううち心を許し、身の上話をするまでなった。
ベルさんが「パパ」と呼んだその人は、彼女の母親探しを手伝ってくれた最初の人だ。
おそらく彼は、戸籍謄本を取り寄せたのだろう。ベルさんの生家が札幌であることや、4歳違いの弟がいたこと、彼がアメリカ人に養子にもらわれたことなどは、このときにわかったのではないかと思う。
そこからどう調べ上げたのか、「パパ」はベルさんの母親が住んでいたらしい家をつきとめ、彼女をそこまで連れて行ってくれた。
埼玉県のとある町、並んだ小さな平屋住宅のひとつが、その住所だった。すでに母親はいなかったが、大家が母親とその家族を覚えていた。
「日本人の奥さんと、黒人の旦那さん、それに子供が一人いて、三人でアメリカに引っ越していったよ」
大家さんは、一枚の写真を見せてくれた。ベルさんの母親と、小さな子供が映った写真だった。
いったいいつアメリカに渡ったのか、大家さんの言葉をベルさんは覚えていない。メモもない。
それから、「パパ」は、ベルさんの母親の兄弟、つまり伯父か叔父にあたる人も見つけ出した。学校の先生をしている人だった。
二人は町田まで彼を訪ねたが、「何も知らない」の一点張りで、追い返されてしまった。
母親探しは、それで行き詰まってしまったらしい。
いや、もしかしたら、さらに調査を進めようとしていたのかもしれないが、「パパ」はそれからまもなく、不幸にも交通事故で亡くなってしまった。
彼には家庭があったが、ベルさんは矢も盾もたまらず、葬儀に出てきちんと「パパ」とお別れをした。
夜間中学に入学、母と弟に会いたい
それから10年ほど経ったある日、『雑魚寝』に来たベルさんが、水島さんに「年賀状の書き方を教えてほしい」と言った。
何を言い出すんだろうと思いながらも、水島さんが紙に「新年あけましておめでとうございます」と書いて渡すと、ベルさんがそれを手本に、たどたどしく文字を書き写しだした。
その手元を見て、水島さんは衝撃を受ける。
「ベル、もしかして、字が書けないの?」
養護施設時代、ベルさんはあまり学校が好きではなく、勉強をせず、休むことも多かった。中学にはとうとう一度も行かず、施設の雑用の仕事をして過ごしていたという。
おそらく、幼少期の折々にある大事なタイミングで、彼女は学ぶコツを掴みそこね、教育をきちんと受ける機会を逃してきてしまったのだと思う。
「ベル、文字を覚えなさい」
水島さんは、ベルさんにひらがなのドリルを買って贈った。
ベルさんは、挫折しては水島さんと大喧嘩したという。
そうした中で、彼女はある日、テレビで夜間学校のことを知った。
「これだ!」
ベルさんは区役所に走り、近くの夜間中学校を紹介してもらった。そうして、50歳にして晴れて中学生となった。
そこで「あいうえお」から学び、水島さんや先生たちに叱咤激励されながら、作文が好きになるほどまでになった。
3年後の卒業式では卒業生代表に選ばれ、原稿を自分で書いて答辞を読んだ。
この夜間中学の3年間の間に、ベルさんは2度目の肉親探しに挑戦している。学校の先生の一人が、手伝ってくれたのだ。
「横浜のどこかの施設にいた」という彼女の記憶を頼りに、まず二人は「エリザベス・サンダース・ホーム」を訪ねた。
そこに記録がないとわかって、次に訪ねたのが横浜の「聖母愛児園」だった。
ベルさんがそこにいた記録が、確かにあった。そして、それ以上のことはわからなかった。
また同じ時期、ベルさんは埼玉県所沢市の住所宛てに、一通の封書を出している。宛名は、彼女の母の母、つまり祖母の名だ。
手伝ってくれた先生が探しだしたと考えるのが自然だろう。いったいどうやってつきとめたのか。
とにかく、ベルさんはお祖母さんに手紙を出した。ところが、まもなくして未開封のまま送り返されてきた。
差出人はベルさんの母親の兄弟の妻らしく、「お祖母さんはここにはいない、放っておいてほしい」という内容だったそうだ。
こうして、2度目の調査も頓挫した。
3度目は2007年、テレビを使ってみようという試みだった。
当時、島田紳助司会の感動再会もののバラエティショーが流行っていた。そこに、『雑魚寝』の水島さんがベルさんのことを書いて送ったのだ。
しかし、これも「見つからず」だった。
わたしとベルさんは2003年に『雑魚寝』で出会っているが、警戒心が強く「男は好きだけど、女は大嫌い」というベルさんは、なかなか口をきいてくれなかったので、この頃にはまったく交流はない。
やっと打ち解けて親しくなったのは、2009年にわたしが小説家デビューをした少しあとのことだったと思う。
それから彼女の身の上話を何度聞き、何度一緒に泣いたかしれない。
特に夜間中学の話は胸に迫るものがあり、このエピソードをモデルに小説を書こうと考えたこともあった。
しかし、彼女の人生があまりに重く、考えなければいけないことが山とあって、実現しないまま年月が過ぎた。
肉親探し、最後の挑戦
2022年、春に高齢者向け集合住宅に引っ越したベルさんの新居を、7月になってはじめて訪問した。ベルさんは、73歳になっていた。
買ってきたワインとビールで酒盛りをしながら、わいわい楽しく話をしているうち、ふいに彼女が立ち上がり、押入れから何やら出してきてわたしに差し出した。
戸籍謄本だった。
発行日から察するに、テレビ番組に探してもらおうとしたときに取り寄せたものと思われる。
身の上話は何度も聞いてきたが、それを見るのははじめてのことだった。
母親探しの調査については、3度に渡る挑戦のことをすでに聞いていたので、もう見つからないものだと思っていた。
しかし、ベルさんはあきらめていなかったのだ。
はじめて見る、彼女の弟の養父母とお母さんの結婚相手の名前を、目で何度もなぞるうちに、インターネットで調べてみようか、という気持ちになった。
「これ、スマホで撮っていい?」
そう言うと、彼女は拝むように手を合わせて、
「調べてくれる? お願い、探して」
と言った。
「検索するだけだし、名前は全部カタカナで英語の綴りもわからないから、たぶん何も出てこないと思うよ」
いつまでも手を合わせている彼女に、くれぐれも期待しないようにと念を押した。
そうして家に帰り、Macを開いた瞬間、わたしは彼女の「4度目」の母親探しの旅に足を踏み出すことになった。
それから数日の間に起きたことは、Twitterに書いた。
以下、いくつか転載する。
(調査を進めるうち、ベルさんの記憶がどんどん蘇ったり、わたしの記憶違いもあったりで、間違った記述がいくつかあることがわかったので、一部修正している。ツイートのほうは後に削除する予定。)
※2024年3月、ベルさんの物語が本になりました。↓
これ以降、ベルさんの名前を出してツイートしている。彼女からの希望でもある。
このあとも、『Find My GI Father』や聖母愛児園の方からの情報によって、あらたな事実が次々と飛び出してきて、今、ちょっと魔法にかかったような、やや酩酊状態の中にいる。
おそらく、ベルさんもそうだろう。
とても頑張ったので、しばらく酩酊を楽しんだら、ビシッと気持ちを引き締め直して、次の段階へ進もうと思う。
これを読んでくださった方たちは、続きが気になることだろう。
本にできることがほぼ決まったので、それをお待ちいただきたい。ルポルタージュを書くのははじめてだが、全力で取り組むつもりだ。
ネットに上げられる範囲の進捗は、Twitterに随時更新していく予定なので、気になる方はフォローしてください。
>> 岡部えつ Twitter
※画像がダウンロードされてしまわないか、ご心配される声をいただいたので、掲載していた写真を一旦非表示にしました。
©2022 EtsuOkabe 岡部えつ
※2024年3月、ベルさんの物語が本になりました。↓
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