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[essay]性的同意と『プライマ・フェイシィ』

「性的同意」についてSNS上で議論になっていたのでチェックしてみると、いまだに「男の部屋に入った女はセックスに同意しているか否か」をやっていて、げんなり。

先日、一本の映画を観た。National Theatre Liveナショナル・シアター・ライブ の『プライマ・フェイシィ』である。National Theatre Liveとは、映画で観られる英国国立劇場ロイヤル・ナショナル・シアター厳選の傑作舞台で、わたしは今までに『フランケンシュタイン』『ハムレット』『欲望という名の電車』『夏の夜の夢』『戦火の馬』などを観てきた。ちょっとチェックを怠ると見逃してしまうので、何度も地団駄を踏まされている。

『プライマ・フェイシィ』は、性的同意をテーマにした一人芝居である。主人公は若くて野心的な女性弁護士。タイトルも法律用語で、「prima facie evidenceプライマ・フェイシィ・エビデンス:一見明白な証拠=反証がないかぎり十分な証拠」という使われ方をするらしい。というわけで、これは一種の法廷劇でもある。

被告、原告、弁護士、検事、判事、陪審員と、様々な立場の人間たちのそれぞれの思惑が交錯するのが醍醐味の法廷劇を、一人芝居でやる。そこがまず凄い。主役の弁護士テッサ役のジョディ・カマーは、落語のようにいくつもの役柄を演じ分ける。そのたびに客席から笑いが起こるので、きっと英語ネイティブにしかわからぬ言葉の微妙なニュアンスや訛などを使い分けているのだろう。

しかし劇場がそうした笑いに包まれるのは、彼女が自分の仕事振りや恋愛事情を時に自慢げに時に自嘲気味に、マシンガンのごとく開陳し続ける前半部分だけである。

【注】以下ネタバレしています。

* * *

職場の飲み会で、同僚のジュリアンがテッサの体に触れてくる。はじめはやんわり拒否するテッサだが、酔いも手伝って次第に悪い気がしなくなってくる。数日後、一緒に残業をしているうちにまたジュリアンにアプローチされ、いい雰囲気になってセックスしてしまう。まだ恋人とは言えない間柄、タイプでもない、でもまんざらでもない、そんな感じ。

テッサはこの小さな秘密を、職場の仲間の一人と大学時代の親友だけに打ち明ける。ちょっと嬉しげに、である。

そしていよいよ、事件が起こる。初デートの食事の後、二人はテッサの部屋で飲み直す。無理やりではない。テッサも誘っていたし、ジュリアンも喜んでいた。そこで二度目のセックスをする。これも両者同意の上だ。

その後、テッサが悪酔いして裸のままトイレで吐いてしまう。気がついたジュリアンは、便器を抱えてぐったりしているテッサを抱き上げ、ベッドに運ぶ。そしてそこで、再び性行為におよぼうとする。当然のこと、体調最悪のテッサはそんな気分ではない。口には吐瀉物が残ったままですすぎたいし、体に力も入らない。何度も嫌だ、やめてと訴えるが、ジュリアンはやめようとしない。そしてついに、テッサの両手を押さえつけて自由を奪い、無理やり挿入する。テッサは激しい痛みに襲われ、同時に精神を引き裂かれる。

解放されたあと、テッサはバスルームに行き体が赤くなるほど洗う。そして服を着ると、ベッドで眠っているジュリアンを残して部屋を出る。激しい雨の中、ずぶ濡れになりながらテッサは考える。

相手も弁護士。しかもテッサと違い、代々法曹界という家の出身だ。もし彼を告訴したらどうなるか、想像できない彼女ではない。彼の一族も、所属する事務所も、法曹界の多くの人たちも、ジュリアンの将来を台無しにすまいと一丸となって彼女に対抗してくるだろう。

それでも……。テッサはタクシーに乗る。そして「警察へ」と行き先を告げる。

2年後、刑事裁判が始まる。テッサは原告として証言台に立っている。判事も弁護人も、見渡せば法廷は男ばかり。傍聴席にはジュリアンの父親や、信頼する上司の顔もある。上司はテッサに「君を信じるよ。ジュリアンには、前にも同じことがあった」と言ってはくれたが、今日はジュリアンの無罪を信じる立場でそこにいる。

不同意性交であったことを、被害者自らが証明しなければならないのが性犯罪だ。被告は黙って座っていればいい。彼の代わりに弁護士が、原告にそのときの状況を細かに質問し、何度も同じことを説明させ、曖昧な記憶をかき乱し、焦らせ、混乱させ、ほころびを生じさせ、小さな矛盾を突いて証言を崩せば、それでおしまい。

テッサ自身がかつてそうやって、性犯罪被害者の原告を追い詰め、被告の無罪を勝ち取ってきた。だから、絶対に失敗できないことをよくわかっている。

しかし、まさにセカンドレイプのような厳しい被告弁護人との応酬の中で、テッサは失敗を犯す。誰よりも早く、テッサ自身がそれを悟る。

判決は「無罪」。

茫然としながらも、テッサは家父長制社会の中で男たちが作り上げた法制度の不条理を、観客たちに問いかける。

* * *

ざっくりと、こんな話である。メモをとっていたわけではないので、記憶違いがあるかもしれない。

性犯罪の被害者は、犯行中はパニック状態に陥り記憶が定かではない。なのに裁判は、その曖昧な記憶をたぐらせることを強い、証言に矛盾を起こさせて被告を無罪にする。そして男性優位社会は、加害者が有罪になった場合の損失ばかりに焦点を当てる。しかし被害者は、被害に遭った時点で人として誰もが持てる大切なものを奪われる。キャリア、尊厳、性の喜び、そのどれもをテッサは失った。

性的同意とは何か。逆に不同意とはどういうことか。エンドロールの中、わかっていると思っていたが甘かったと、うなだれてしまった。

同時に、大好きなアメリカのドラマ『ダイエットランド』の、ある印象的なシーンを思い出した。

30歳を過ぎてまだ一度も男性とつき合ったことがないプラムが、はじめて自分に好意を寄せてくれる男性と知り合い、いい感じになる。何度かデートを重ねた後、彼の家に招かれ、いよいよ初体験かと期待する。いちゃつくうち、そんな雰囲気になってくる。ところが、いざ彼が迫ってくると、プラムはその性急なやり方に不快感を覚える。ちょっと待って、こんなんじゃない、嫌だ、でも自ら彼の部屋に来てしまったんだし、とパニックに陥っている間に、男はどんどん乱暴になり、プラムを後ろ向きに壁に押しつけると、ショーツだけ下ろして挿入する。プラムは明らかに同意していなかった。

友人から、それはレイプだから告訴すべきだと諭されるが、プラムは結局何もしない。そして他にも様々な経験を経て、この物語の主題である真のフェミニズムに目覚めていく。

テッサの「不同意」もプラムのそれも、見方によってはグレーかもしれない。「これをレイプと言われたら、男は何もできない」という声も聞こえてくる。その声は、男性のものだけではなさそうだ。似たような経験をした女性の中には、「あれはわたしが悪かったのだ」と思っている人も少なからずいるのではないか。

なぜ、そう思うのだろう。

ふだん、嫌だと意思表示したことを無理やりされたら、堂々と相手を責めないだろうか。なぜ、性行為に対してだけ、女性は「自分に非があった」と思いがちなのだろう。

そう思ったほうが、「被害者」になるより気が楽だからだろうか。

そう思ったほうが、波風が立たず、ものごとが丸く収まるからだろうか。

そう思ったほうが、「男の性欲は走り出したら止められない」という理屈に適うからだろうか。

もちろん、こんな理屈は嘘だ。実際はほとんどの男性が人間らしい理性を持ち、性欲をコントロールしている。それができないのが性犯罪者なのだ。

なのに、テッサやプラムのような案件に出くわしたとき、いまだに「女性側に非があった」とジャッジする人が少なくない気がする。たとえばこんな場合はどうだろう、ああした状況で男性が行為をやめてくれたとき、どちらが「ごめんなさい」と言う? どちらが不機嫌になる?

* * *

冒頭に書いたSNS上の議論は、ある男性芸人の性加害スキャンダルが発端だった。被害者の女性が警察に届けを出し、不同意わいせつ罪、不同意性交等罪の疑いで書類送検されたという。

この報道に対し、容疑者芸人の妻が声明を出した。そこに「相手の方からも”行為”があり」という記述があった。「だから不同意ではない」という意味合いだと思う。

不同意わいせつ罪、不同意性交等罪が問題にしているのは、被害者の”行為”ではなく”意志”だ。非対等な関係の中で、立場の弱いほうは実際の意志を貫き通しにくい。そこにつけ込んで行われる性犯罪が非常に多い(見知った仲でのそれは、ほとんどこのパターンだ)。

それに照らすと、妻の主張は何の意味もなさない。

一方、”意志”は見えないので言ったもん勝ちだ、という意見がある。それもわかる。しかし裁判となれば、その意志を証明することが必要になってくる。『プライマ・フェイシィ』で表現されたように、“言ったもん勝ち”とはほど遠いのが現実だ。ただ、今はもう「自ら部屋に入った」だの「抵抗しなかった」だの「叫んで助けを呼ばなかった」だのといった、”行為”だけで被害者を「非」とするのは誤りであることが前提になったということだ。

昨年(2023年)法改正がされ、強制わいせつ罪、準強制わいせつ罪、強制性交等罪、準強制性交等罪が廃止となり、代わって不同意わいせつ罪、不同意性交等罪が新設された。それまで日本では、性被害を証明するのに多大な条件(先に述べた「抵抗したか」や「叫んだか」など)がついていた。それは加害者に有利に、被害者に不利に働くものだった。そのせいで、日本では性犯罪がそもそも刑事事件として起訴にまで至らないことが多かった。

まさにテッサが訴えた ”男性優位社会の中で作られた性犯罪者に有利な法制度" の下、多くの被害者たちが泣き寝入りを余儀なくされた社会だったのだ。それはまだ、終わっていない。

『プライマ・フェイシィ』は、「どうすべきか」の答えは出していない。問いは観客に投げられ、受け取った我々は考えさせられている。この犯罪については、まだそれぞれの立場からの答えを吟味しきれていないのだと思う。日本はやっと法改正されたばかりだし、世界には性犯罪を犯罪と考えていない人もいるくらいだ。

難しい問いだが、考え続けなければいけない。なぜなら、世界中に無数の被害者が存在するのだから。

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岡部えつ(小説家)
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