おかーさん
私の母「チエ」は39歳で私を産んだ。
子供の頃、眠る前によく自分の辛かった時の話や、戦争体験など話してくれた。
チエは新潟の紡績工場を経営する家に生まれたが、工場が火事になり、200人以上いた女工さんの宿舎と工場などを建て直すために、山林を担保に銀行から莫大な借金をして、さあこれからガンガン稼いで返していくぞ!っていう時にあっけなく父親が病気で死んでしまった。
幼子チエ(@4歳)には2人の兄と姉がいて、生まれたての妹もいた。チエのは母は5人の子供と莫大な借金を抱え、家や工場、山林を全部相殺して東京に出る決意をする。
小学生の兄や姉達は手伝いもできるし、乳飲子を離すわけにもいかず、1番足手まといだった4歳児のチエだけお金持ちの家に養女に出された。
泣いてばかりのチエはたいそう甘やかされて育つが、小学生の頃にそのお金持ちの家が破産した。養父母は必死に働かねばならず、チエはほったらかされ、近所のおばさん達が毎日おかずを分けてくれた。そのお返しで、チエは子守を引き受け学校から帰るとよそのうちの子供をおぶってあやしたり、産湯に入れたり。
いよいよ養父母の財政は緊迫し、尋常高等小学校を出るぐらいで、子守に慣れていたチエは奉公に出された。
遠く離れた奉公先には小憎たらしい男の子がいて、チエをバカにしたり意地悪したり。赤ん坊の世話をしながら耐え忍ぶ毎日。いつかこんな家出てやる!と歯を食いしばり奉公を続け、ある程度給金が溜まった頃、東京で暮らす実の母に手紙を書いてそっちへ行きたいと訴えた。
チエの母は和裁ができたので、そのお金で子供達を育て、上の姉達は学校を出て働きに行って、妹はまだ学生だった。戻っても狭い東京の家にチエの居場所はない。それでも遠く離れたところより、かーさん達の近所に行きたいというチエの為に東京での住み込み奉公先を探してくれた。
夜汽車に揺られながら不安な気持ちを抱えて花の都に降り立つチエ。まだ幼さの残る18歳だった。
新しい職場は大きな氷問屋だった。電気冷蔵庫のない時代は街にリヤカーで氷を売り歩く商売があった。
氷問屋とは、身体から湯気を立てながらのこぎりで氷を切って、街に氷を売りに行く人に卸す商売。人足さんがたくさんいて、チエの仕事はおさんどん。
毎日3回かまどで一升の米を炊く。糠味噌かき回し、味噌汁こさえて、教わりながら料理を覚えていった。
そこの女将さんが熱心な仏教徒だった。うちで働く間はお腹いっぱい食べれるし衣食住には困らないから、あんたの給金はお米にしてお寺にお供えしてあげるという。遊びに行くということを知らないチエは言われた通り、ほぼ無給で働き続け空いてる時間は女将さんのお寺詣りにもお伴した。お寺には自分の名前で米俵が奉納されている。仏様にたっぷりお供えしたからね、あんたは一生食うに困ることはないよと豪快に笑う女将さん。
お寺詣りにもちょくちょくお伴して、ご信者仲間に年頃の息子さんを紹介されて結婚することになった時、花嫁衣装にと女将さんが自分の一張羅を着せてくれた。
こんな感じの話を寝る前に我が子に話す母は愚痴っぽい女だったかというと実はそうでもない。彼女はこんなこともあったけど、今は本当に幸せだと子どもに伝えたかったのだと思う。信心もそのまま引き継ぎ、先祖を弔い、米粒を大事にして、毎日糠味噌かき回し続けていた。
今私も、祖父母や両親の命日に花やお菓子や果物供えながら、日々の無事を感謝し糠味噌かき回し続けてる。
チエが米俵をたくさんお供えしてくれたおかげか、今も食うことには困らぬ生活を送れているのかもしれない。
チエは14年前、80歳で天寿を全うした。莫大な財産は残してくれなかったけど、「ありがたいありがたい」と感謝の心で過ごせという「信じる心」を残してくれた。
やっぱり母は偉大だ!おかーさん大好きだ!
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