大人の階段
小さなログハウスのような佇まい。電気のついていない赤い看板に小さくラーメンの文字と屋号が出ている。時は12月。店内がよほど暖かいのだろう。窓ガラスはうっすらと曇り、中には真っ赤なポインセチアが二鉢飾られているのが見える。その窓ガラスの端にA4のコピー用紙にマジックで「アルバイト募集」と書いてある。
結衣は高校3年生。「推薦入学」で進路がもう決まっていたので、この冬休みにアルバイトをしようと思った。
「カランコロン〜」意を決してドアを開けると、カウベルが鳴った。
「お店5時からなんですよ〜」カウンターの中の若い男がこっちをちらりと見るとそういった。
「あの、表のアルバイト募集を見たんですが。」結衣は精一杯の明るい声でそう切り出すと、にっこりと笑った。
男は、まじまじと、まさに上から下までじろりと見ると、急にぱっと顔をほころばせた。
「まじで?!いや〜こんなに若い子が来てくれるなんて思わなかった!明日から働ける?すっげー助かる!」
こうして、結衣のラーメン屋でのバイトが始まった。
「結衣ちゃん、ゆで卵、今からゆでるからさ、15分たったら教えて、俺ほかの仕込みしてるから」
「はい!」
男の名前は「純」といった。この店は純の兄が経営してる。その兄は渋谷のセンター街の奥で小さなバーもやっている。バーで出す〆のラーメンが常連に人気になり、少し離れた住宅街で、そのラーメンだけを出す店を作ったというのだ。
結衣はテーブルを拭いたり、花の水遣りをしながら時計を気にしていた。
「あ、トイレ掃除もお願いね〜」「はい!」
自宅でもトイレ掃除なんかしたことなかったが、結衣は一生懸命掃除した。
「できました〜」
「結衣ちゃん、15分過ぎてるよ。」
う、すっかり忘れてた。
しかし、次の日もゆで卵の時間を頼まれたが、時計を気にしていたのに、「まかないでラーメン作ってやるよ!」と美味しそうなラーメンを出されて、15分過ぎに「あ!」
その次の日も、また頼まれて、今日こそは!と思っていたら、「もやし買ってきて〜」といわれて、ウキウキお使いに行き15分を忘れた。
4日目「純さん、意地悪だ。今日はぜーったい、15分忘れるもんか!」
結衣は、いつ言われてもいいように、早めにトイレ掃除も済ませ、買い物も終わらせて、純がゆで卵をゆで始めるのを待った。
「今日はワンタンの包み方教えてやるよ」
「あ、ゆで卵は?」
「もう作っちゃったよ」
「純さんの意地悪!」
まかないはつくし、楽しいバイトだった。ゆで卵の壁はなかなか厚くて、ぴったりに「時間ですよ!」と声をかけることはできなかったが、純との攻防も含めて結衣は1月末までのバイトをたっぷり楽しんだ。
*
「結衣ちゃん、短い間だったけど、ホントに助かったよ!短大生になる前に、お祝いもかねて飲みに行こうよ。センター街の兄貴の店に招待するよ。12時に結衣ちゃんの家まで車で迎えに行くから、家抜け出してきな」
夜中に、親に内緒で、家を抜け出して、渋谷まで飲みに行く。
それは想像もできないほどの大冒険だ。
しかし、1ヶ月以上毎日一緒に働いてきて、純の人となりも分かってきている結衣は、ぜひ一歩を踏み出して、冒険をしたいという気持になった。
2月の寒いある夜。結衣は約束どおり、親の寝静まった12時にそっと家を抜け出した。
純の真っ赤なSR311が黒い幌をつけて停まっていた。狭い助手席に乗り込む。むき出しのロールバーを見ながら、結衣のひざは小さく震えた。
「俺の彼女よりも、結衣ちゃんのほうがこの車には似合うな」さりげない純の一言に頬が熱くなる。
渋谷まで15分のドライブ。結衣は心臓の音が聞こえたりしないか?と思いながら、見慣れた景色を低い位置から眺めていた。聞いたこともない洋楽が心地よいリズムを奏でる車内は、いつもの子供じみた会話をする気持にはならなかった。
バーは、ラーメン屋と同じようなログハウス調の造りだった。カウンターには、見たこともない洋酒が並び、中の男が純に軽く手を上げた。
「これがうわさの結衣ちゃんだよ!あっちのお店の看板娘!」純は男に結衣を紹介した。
男はにっこり微笑むと、飲み物を聞いた。
「俺、今日は車で来てるからウーロン茶!結衣ちゃんはお酒でもジュースでも何でもいいけど、今日はお祝いだからボトルを一本入れてやるよ。そのうち、友達と遊びに来たとき飲むといいよ。」
純はそういうと、アーリータイムスのボトルを出してもらい、黒いマジックで、名前を書き出した。結衣はコーラを頼むと、「じゃあ、そのお酒を、ほんのちょっぴり入れて」と純の手元を覗き込んだ
ボトルには黒くて太い文字ででかでかと書かれていた。
【結衣ちゃん、ゆで卵は15分だからね!!】
「純さんの意地悪―――――!!」
了#第1回noteSSF
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