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10. ショルダーストラップ

 アニはいつもリュックサックのショルダーストラップが捩れ、肩からずり落ちた状態で背負っている。靴底を地面に擦りながら歩くので、しばしば夫が注意する。

 高次脳機能障害の判定をした市立病院の紹介で、二つ隣の駅にある精神医療の専門病棟を有する大学附属病院を訪れたその日も、肩が捩れたリュックサックを背負い、靴底を引きずる音と共にアニはやってきた。
 誕生日にプレゼントしたスニーカーは、靴べらを使わずに足をねじ込んで履いたため、ヒールタブが踵に引っかかって折れていた。

 コの字型に九つの診察室が並ぶ、その病院の待合室は、患者と付き添いの家族で溢れていた。
 診察の予約を取る際に、患者は暴れるか、一人でじっとしていられるか、付き添いは来るか、など聞かれ慣れない質問をされたこともあり、一抹の不安を覚えながらの訪問であったが、待合室には静かな時間が流れていた。

 初診のため、朝からCTなどの身体的な検査を行なったが、医師との面談は午後になるとのことで、私たちはそれまでの数時間を病院の周辺を散策したり、待合室で過ごすことにした。

 病院は、桜の木が敷地をぐるりと囲むように植えられ、私たちが訪れた夏の初めは、正門までの道に心地よい木陰をつくっていた。門を入り、病棟を横切って裏手にまわると、松や棕櫚、八手などが繁茂する中庭がある。そこはガラスが天井まで張られた病院の待合室の一角と接し、建物の中からもその景色を眺められるようになっている。周辺に団地が立ち並び、線路沿いにありながら喧騒を感じないのは、病院を覆うように植物が囲んでいるためだろう。

 そうしているうちに、初めて訪れた精神病院にも次第に自分の目が慣れはじめていることを感じた。
 待合室を見渡すと、診察を待つ患者たちのなかに、リュックサックのショルダーストラップが捩れた状態で背負う者、靴底を地面に擦りながら歩いている者を認めることができた。
 また、あちらこちらで患者同士が待合席の狭小の隙間に腰を下ろしたため、局地的に人の密度が高い状態が現出していた。
 自分の診察の順番を数分おきに看護師に確認する者、目の前の人物に話しかけるには大き過ぎる声を出す者など様々であるが、職員たちは患者たちそれぞれに合わせて会話をしていた。
 
 いずれも程度の違いこそあれ、アニと似たところがあった。
 アニに食事の盛り付けを頼むと、皿のサイズを見誤ることが多い。南瓜の煮付け2切れを茶碗ほどの大きさの器に盛ったり、焼き魚の半身を深いリムの小皿に押し込むなど、物と空間の認識に苦労をしている様子が窺えた。
 また、ひとつの場所にとどまることができる時間が限られており、大抵は1時間半ほどでそわそわとし始める。花火見物に招待した際は、打ち上げ前に帰りたがり、皆を戸惑わせていた。
 アニと外出をすると、周囲の人が振り返ったり、怪訝な表情でこちらの様子を窺われることが多い。リュックサック然り、身なりを整えることに意識が向かないことが多く、発話に独特の抑揚がつき、声量の調整ができないため、注意を引きやすいのだろう。

 だが、病院では、アニの言動に注意を払う者はいなかった。それは無関心なのではなく、そういった特性を理解している集団による受容とでもいうのだろうか。

 医師との問診のため診察室に入ったアニの声は、外からも断片的にだが確認できた。その内容は、義父の葬儀費用を引き出すために連日ATMに通ったこと、留置所で同房になった人物から聞かされた武勇伝、留置所内のルールなどを熱心に話している様子だった。話し手が、父の死体遺棄の容疑で逮捕された前歴者だと意識して聞いたなら、一般的には不謹慎極まりない内容と明るさに感じるだろう。

 アニと入れ替わりで行なわれた医師との面談では、安定した精神状態なので投薬は不要との説明をされた。今後は2ヶ月に1回、経過観察のための診察に通うことになるという。だが、それ以上のことは、何を質問してもはっきりとした答えはもらえなかった。

 後日、調べてみると、脳梗塞などの身体的病因による外因性の精神障害を器質性精神障害ということが判った。この精神障害には、認知機能の低下、健忘、人格変化、幻覚や妄想、感情障害などの多様な症状が見られるという。

 ふと、どこかで私はアニの状態に名前をつける事で、この状況を無理矢理に理解しようとしているのではないか、という思いが過ぎった。
 具体的な病名を知ることで、解ったような気がするが、名前を手にした途端にアニが抱える問題そのものは、むしろ意識から後退しているように思える。
 精神医療とは、揺れ動く患者のいまを継続的に観察することなのかもしれない。アニの抱える外因性の精神障害を、一般的な常識に準えて治療したり問題解決を図ることは、むしろ的外れなことだろう。

外部の現実が、今、眼に「見えているように」存在しているという信仰を捨てる必要がある。「見えているように」見せているのは、自分の心の中にある概念の働きである。わたしたちは概念の影を見ているに過ぎない。

玉城徹 『藜の露』

 アニの診察の所見で「留置所に入ったことについては、反省している感じはないですねー」と、笑顔で話す医師を思い出す度に、肩の力がすっと抜けるような気がする。


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