見出し画像

14. 横着の王様

 横着をすることについては、呆れるを通り越して感心してしまうほどの能力を発揮するアニだが、それも高次脳機能障害によるものと、問題が起こる度に自分を納得させてきた。
 遊惰放逸の権化のような数々の振る舞いは、些細なものから、こちらがトラウマになりそうな衝撃的な結末を迎えるものも少なくない。

 幼少期から勉強だけをして、身の回りのことは全て親まかせで育ったというアニは、知命に手が届こうという歳まで、自分の使った食器さえ洗った事がなかったという。義父が亡くなり、突然始まったひとり暮らしは、自立しようという気などまったく起こさず、むしろ煩く言う者が居ないのを幸いと、朝から晩まで遊び歩き、生活費で眩暈がするほど価値のない古本や雑貨を買い散らすなどして、前にも増して遊びに耽っているようだった。

 精神障害者福祉手帳を受給するまでの期間とはいえ、怠惰な生活を嬉々として送る姿には、会社員として働きながら生活のすべてを援助する立場として複雑な思いもあったが、なによりアニを心配し続けていたであろう義両親への面目もあり、社会復帰に向けた準備を兼ねて日常最低限の家事と曜日毎の日課を課すことにした。だが、アニの意識は1日たった3つ程度の家事をいかに楽に済ませて遊びに行くか、ということに注がれていた。

 歩いて3分ほどにある、義両親の墓掃除をお願いすれば、墓のうえから柄杓で水を数回かけるだけで済ませるので、墓石に刻まれた家名や墓誌の溝には砂埃が層を作っていた。仏花を供えたり、水替えなどをする気は毛頭ない。
 洗濯をすれば、脱水した状態のままの袖や裾が捻れた、歪な形の服がハンガーに掛けられベランダに並んでいた。衣類が傷まない様に渡した洗濯ネットもファスナーをしっかり閉めずに洗濯機に放り込むため、空のネットが洗い上がることになった。アニのために機能性と耐久性から選んだ服は瞬く間に型崩れをしていた。呆れるのは、洗浄に加え消臭と抗菌ができ、すすぎも一回で済む、というスティック型の凝った洗剤を愛用していたことである。
 台所や風呂場にはスプレーするだけで、擦らずに洗える、といった家事の労力を減らすことを売りにした洗剤が並び、食器やシンク、浴槽などはスプレーした場所が分かるほどまだらに汚れていた。
 水切りかごに上がった食器に触れると、糸じりにはカビが生え、影から害虫が姿を現すことも珍しくなく、擦らず洗えているはずの食器やシンク等を私が擦りに行くことも毎月の恒例になった。

 アニの横着が引き起こした、数々の後始末をするうちに、これは脳障害以外の要素も影響しているのではないか、と考えるようになった。アニは如何に楽をするか、という問いには常に真剣に向き合っている。ドラッグストアで無数にある洗剤のなかから、最も楽ができるものを選び出すことは、それなりの労力を必要とするだろう。その能力が最大限に発揮されたのが、就職氷河期時代の内定獲得である。

 このアニの性格は、二つの要素の掛け合わせより奇跡的に生まれたのかもしれない。
 ひとつは、幼少期より過干渉だったことによる、日常生活に必要な常識と衛生観念の欠如。半ば強制的に通わされていた塾や習い事の反動としての遊びへの欲求。もうひとつは、中学3年生の秋に発症した脳梗塞の後遺症としての脳障害である。
 アニの精神病院の主治医に脳障害の状態を訊ねてみたことがある。アニの脳は、前頭葉に大規模な損傷が残っているため、障害としてはこの前頭連合野が司る、思考や判断、情動のコントロール、コミュニケーション、社会性といった機能の働きが鈍くなったり、過剰になる傾向があるという。また、元来の性格がより強くなる、先鋭化、と言われる傾向が現れることも多いそうだ。
 実際に、夫やその伯母に子ども時代について聞くと、病前から衛生面や身だしなみについては無頓着で、よく義母に注意されていたという。本人に幼少期の塾や習い事について訊ねてみても、いずれも県屈指の成績を残しているにも関わらず、その時間帯に放送していた人気アニメを見られなかったことを未だに残念がっていた。
 一方で、子どものころから勉強に親しんでいたせいか、情報の収集や分析については能力を発揮することができる。靴洗いを頼んだ際に、横着をして専用洗剤を買わずにインターネットで調べた中性洗剤での洗浄として食器用洗剤を使って行なったことからも、アニの思考や判断の傾向がどの様なものかは分かるだろう。

私は怠けものです。怠けものというよりは、どんな場合でも楽な姿勢を取りたい性質です。近頃そうなったのではなくて、生まれつきそうなのです。

梅崎春生『蝙蝠の姿勢』

 だが、常識を逸した横着の限りを尽くせば、必ず問題が表出する。軽微な横着は短期間の間に家族の知るところとなるが、厄介なのは深刻な問題につながる種類のものは、ある程度の時間をおかないと表面化しないことである。
 逮捕時、アニには歯が2本ほどしか生えていなかった。本人は路上生活時代に失った、と主張しているが、アニの性格を考えれば、長年歯磨きを怠っただけ、とすぐに分かる。1ヶ月ほどの路上生活が殆どの歯を失わせるほどのものであったのなら、アニはいまこの世にいないだろう。
 数ヶ月に及ぶ歯医者通いを経て、ようやく手にした入れ歯であるが、治療をして残すことができていた残存歯をなぜか半年後に抜歯することになった。問い質したアニから、入れ歯ができてからは、自分の歯は磨かなかったと聞かされても、溜息は出ても驚きはしなかった。
 アニが話す度に見え隠れする、中切歯と犬歯の隙間にはいまも苛立ちを覚えるが、最後の一本が無くなるまで入れ歯は作り直さないと固く心に決めている。

いいなと思ったら応援しよう!