I. 隻眼 [猫と義兄ー猫編]
──猫は向こうからやってくる。
この言葉は、ある詩人によるものだ。
我が家の五匹の猫たちはみな、向こうからやってきた、と言えるかもしれない。だが無計画に迎え入れたわけではない。
我が家の猫のうち、正確な年齢が判っているのは一匹だけである。
その猫は、あるピアニストと仕事をしていた時、彼の伯母が保護した野良猫のうちの一匹だった。
デスジャズというジャンルを掲げるグループで活動していた、そのピアニストは、強面のビジュアルと予測不能な発言や行動を繰り出すミステリアスな存在として認知されていたが、仕事を通して少なくはない時間を共に過ごした私が知るのは、愛猫家で家族愛に満ちた性格で、人柄は決してDeathなものではなかった。その日も、打ち合わせに訪れた会議室で開口一番「ロサールさん、猫飼わない?」と突然提案してきた。
当時、私は数年に渡り仕事漬けの日々を過ごし、充実感はあったものの、どこかでこの生活に区切りをつけたいと考えていた。それとは別に、いつか猫と暮らしたいと願っていたこともあり、彼の提案はかねてより意識していた新しい生活に飛び込む後押しにもなった。
しかしながら、命への大きな責任を伴う決断、二つ返事とはいかず、その日は曖昧な返答をして別れた。
真性の心配性も手伝い、猫を迎える決断をするまでに時間を要したため、当初十匹ほどいた猫たちもそれぞれ里親のもとへ旅立ち、彼の祖母と伯母が住む家を訪れた時は、残った一匹だけとなっていた。
「猫とは相性だから、ダメだったら仕方ない。あとは目がどうか。」道すがら、彼がそんなことを呟いていたのを憶えている。
古くからの住民の多い、アットホームな雰囲気が漂う住宅街にある、その家の玄関をくぐると、知的な佇まいの黒猫が迎えてくれた。その家には二匹の猫がいるが、もう一匹は人見知りで訪問者がいる時は姿を現さないという。居間には、さまざまな時代の家族の写真が飾られ、彼の祖父が愛用していたという、堅牢な造りの美しい木製の椅子が置かれていた。
「すごい人見知りでシャーシャー言って、誰にも触らせないし、片眼が無いから、この子だけ残ってしまって。嫌だったら無理しないで。」
伯母さんに案内され、猫が保護されているケージを覗いた。かなり過酷な状況を生きながらえてきたことが分かる、痩せた体からは長く細い尻尾が伸び、その姿は鼠かと見紛うほどであった。
聞くところによると、梅雨時の公園の片隅に、母猫二匹と衰弱した八匹ほどの仔猫が一塊りになっており、見かねた伯母さんがその一団ごと保護したという。保護した時の写真を見せてもらうと、ひときわ痩せ細った薄黒い個体がうずくまっており、すぐにこの猫だと分かった。
ゆっくりとケージの中に手を伸ばすと、猫の方から私の腕をよじ登り、肩にしがみ付いてそのまま動かなくなった。顔を見ると確かに片眼が無いようだった。
伯母さんから、眼の治療の記録やワクチン接種の証明書、仔猫用の離乳食やトイレの砂、贔屓にしている店のパン、乾物などを両手いっぱいにもらい、猫と共にその家を後にした。帰路の車中、猫は膝の上で静かに寝息を立てていた。
こうして迎え入れた、痩せ鼠のような生き物は、数週間で灰色の美しい被毛にしなやかな長い尾を持つ猫へと成長した。眉間にはうっすらとMの模様が認められ、トラ柄が混ざっていることが窺える。
右眼は角膜潰瘍のため水晶体までが失われているが、残った象牙色の硝子体が瞼から覗く様子はモディリアニの描く肖像画を思わせる。獣医師と相談し、眼球は摘出せずそのままにした。
隻眼の精悍な顔立ちから、タンゲと名付けた。後に雌であることが判明したのだが。
仔猫の体力は限界を知らない。薄く細い爪は瞬時に地を捕らえ、カーテンや柱、本棚など成猫では登ることができない場所をほぼ垂直に駆け上がる。欠けている右側の視野も、何度か壁にぶつかるうちに障害物との距離を掴み、僅かな隙間も通り抜けられるようになった。
仔猫の能力を知らずにタンゲを迎え入れた、我が家のカーテンやクロス張りの柱が無惨な状態になったことは言うまでもない。
タンゲは私にとって最初の猫である。振り返ってみると、迎え入れるまでは、猫の生態に関する知識を得ること以外、すべて受け身の姿勢で過ごしていたように思う。
詩人の言葉を信じるなら、準備が整った私の元に、タンゲからやってきてくれたのかもしれない。