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マレーシアで文学があまり発達しない訳
世界ではさまざまな文学が発展しています。ところが、マレーシアで文学はほとんどないと言っていいでしょう。どうしてなのでしょうか。
文学の問題というのは、ごく一面からみると国民国家とも関連してくると思います。
国民国家とは文字通り国民を主体とした国家なのですが、マレーシアの場合、この国民がまだいない。語弊があるかもしれませんが、「マレーシア人」としての国民意識がまだ薄いのです。
マレーシアには芸能もありますが、言語の問題があって、国民全員が知っている俳優や歌手は実はほとんどいません。マレー人、華人、インド人などそもそも言語が異なる民族が多数住み、言語によってテレビやラジオのチャンネルが違う。マレーシア国内であっても知らない言語のTVチャンネルがあるわけで、もちろん理解できない限りはチャンネルを捻らないでしょう。マレー人の間だけ有名な俳優がいたりするのです。
それと同じで文学も言葉が異なるため、知らない言語の本は手に取ることはないのです。テレビやラジオよりも「本を読む」ほうがハードルが高い。何百ページにもわたる本は時間をかけないといけません。そこがどうもマレーシアの人たちは本を読まないことにつながっている気がします。本を読む習慣がほとんどない。
マレーシア人という国民意識が薄く、共通の言語も持ち合わせておらず、読書もしない。文学が発達しないわけです。だとしたら、マレー人だけの間の文学はどうなのでしょうか。
確かにマレー人作家は多くいます。本屋に行くとマレー人が書いた小説(ほとんどが恋愛小説かイスラーム関連)を見かけますが、買っている人は見たことがありません。まあ、売れてはいるのかもしれませんが。
ただ、マレー人の間でも「有名な現在の作家を教えて」と言ってもとっさに名前が出てくることはほとんどありません。
そもそも読まないために市場が非常に狭い。さらにマレー語でとなるとどれほどのマレー人が小説を読むのかということになってしまいます。戦前はZainal Abidin bin Ahmad(略してZABAと知られています)が作家として有名でしたが、この人は作家というより評論家。しかし、その主張はしっかりとしていてナショナリズムを鼓舞するようなエッセイも書いていました。マレー人ではあったのですが、英語でも残しています。
Abdul Samad bin Mohamed Saidという白髪の長い白い髭をたくわえた人も小説家としては有名です。この方はマレーシアでの文学賞を取った人で、マレー語と英語で小説やエッセイを書いています。といってももう相当な年なので若い人は知らないでしょう。
余談ですが、この方はだいぶ前に新聞で訃報が出ました。その訃報が出た次の週にKLセントラル駅近くでお茶をしていたら、この人が家族と歩いているのにびっくりしたことがあります。その風貌からとても目立つのですぐにわかるのですが、「マレーシアの新聞は信用できないな」と思った瞬間でした。
つまり、作家といえる人はそんなにいないのです。マレーシアはノーベル文学賞の候補者でさえも出たことのない国ですが、そもそもの作家の絶対数が足りないため、候補にもなりにくい。文学賞になると質が非常に重要になってきますが、そこもマレーシア文学が育ちにくいところなのかとも思います。
どういうことでしょうか。
例えば、隣のインドネシアではプラムディアという有名な作家がいました。植民地時代から政権と対峙し逮捕され、スハルト政権時にも政治犯となって10年以上の島流しに遭いました。しかし、社会から隔絶された中でも創作活動を続け、有名な『人間の大地』や『すべての民族の子』などを書き上げました。彼は抵抗や怒りを心に持ち続け、それを文学作品で表現していました。小説やその他文学作品を作るというのは、社会に何か訴えたいことがあるから書くわけで、色んな厳しい経験をしている作家の作品はやはり訴える力が強い。独裁政権が続いたフィリピンやミャンマーでも多くの作家がこれまで生まれてきています。そういった背景があると作家が生まれやすい状況もあるのではないか。
ところが、マレーシアではこれがうまくいかない。多民族社会でそもそも全国民が一つの言語で意思疎通が難しいという状況です。また、インドネシアやフィリピンなどとは異なり、マレーシアの独立の歴史は宗主国に対して武器をもって独立を獲得したわけではありません。非常に平和裏に独立が付与されたわけで、人の血が流されなかったのはよいことですが、一方で強い抵抗や怒りが生まれなかった。このこともマレーシアの文学作品の創作阻害要因にもなっている気がします。
クアラルンプール国際空港から市内に走る電車がありますが、そこのテレビで「ベストセラー」なるものが映像で流れます。しかし、これはすべて英語の本で、マレー語はないのです。また、書店に行ったとしても「ベストセラー」の本はすでに数年前のものばかりで、それもほとんどが英語。公用語マレー語のベストセラーというのは見つかりません。これは裏を返せば、マレー語本が売れてないということなのかも。これでは文学も発達しません。
一方で華人は比較的本を読みますが、彼らとてほとんど中国や台湾の文学作品を読みます。書店に行ってもそればかりであって、マレーシア華人作家の作品はほとんど見ることがありません。あるのでしょうが、それだけのマーケティングをしていないのです。
マレーシア政府は一生懸命本を読むことの重要性を解いていますが、電子書籍であれ、国民全員が共通の言語で読書をするという行為がない限り、残念ながら、マレーシアの文学が発達するのは難しいでしょう。
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