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マレーシアの国立大学院ってどんなところ?

 ここ数年、マレーシアには日本人留学生が増えています。私立大学を中心に日本にはあまりないホスピタリティー学部が人気だとか。現在は新型コロナの蔓延で渡航ができないので、日本人留学生の人数は減っているそうですが。一時期は300人以上もおり、英語圏であることや治安のよさ、日本からの距離のほか、日本では学べない学部があるので、こちらに来るそうです。

 私は国立大学のマラヤ大学の大学院(修士課程)に2006年に入りました。今の留学生の先駆けのような存在なのかもしれませんが、当時はほとんど日本人留学生はマレーシアにはいませんでした。今回は私が当時経験したことを綴ります。

授業開始日に誰もいない!

 マレーシアの大学院には入学試験はありません。当時は申請書と推薦書、研究内容、英語のTOEFL結果(昔のペーパー版で550点以上)を提出すればOKでした。英語についてはこの点数に届かなくても条件付き(英語の指定授業を入学してから受けること)で入学はできますが、論文作成やプレゼンをするので、点数が低いとやはりきついでしょう。

 修士課程の入学許可が下りたのは確か12月初旬。授業は下旬に始まる(注1)とあったので、日本での仕事を辞めて同月中旬に急いで来馬しました。大学内の高等教育局(IPS)で入学手続きをしたとき、授業開始は24日(クリスマスイブ)からと知らされました。年末からなぜ始まるのだろうと思いましたが、イスラーム暦の断食月を中心に毎年の学期開始を決めるためです。国立大学では毎年流動的なカレンダーであることをこのとき知りました。

 マレーシアの場合、私立大学でもそうですが、学期毎の入学となります。私が入ったのは1学期なのか2学期なのか忘れましたが、2学期制でした。毎学期に新しい学生が入ってくるので、年間通しのクラスというものはありません。毎学期で授業は完結なのです。

 何とか簡素な大学での手続きを済ませ、授業料も払って、授業開始日に学校に行きました。

 しかし! 驚いたことに授業開始日に学校の教室に行っても誰もいない! 修士課程の授業は金曜夕方と土曜日に行われますが、学生どころか先生も来ていない! このときは先生も学生も誰も知らず、連絡先もわからなかったため、やる気まんまんで登校したのに、とぼとぼと帰宅した次第です。何せ12月24日はクリスマス・イブで、翌日はクリスマス。マレーシアの場合、クリスマスは祝日なので、みな授業には出てこなかったようです。

 そして、次の週の授業に行くと(つまり、12月31日と1月1日)、やっとインド人の先生だけが教えに来ましたが、学生は私一人。その次の週ぐらいからポツポツと学生は増えましたが、学生は結構いるのに、一体なぜあんなに出てこなかったのかはいまだに不明です。


授業の言語は先生によって違う 

 授業はとても楽しいものでした。今まで習ったこともない話が次々と展開され、日本ではほとんどと言っていいほどつかめない情報も満載。マラヤ大学は20世紀初めにできた学校なので図書館は今ではほとんど手に入らない書籍が無尽蔵に並び、ほぼ毎日にわたって図書館で勉強していました。

 また、授業が進むに連れて気づいたことがいくつかあります。

 まず、私の学部の場合、学生のほとんどがマレー人であったこと。理数系ではなく、文系であったことから、インド人数人、華人は皆無で、ほとんどが社会人でした。

 しかし、修士課程という高等教育にもかかわらず、学生の多く(特にマレー人)は英語ができない。このため、マレーシアの歴史を勉強する上で必要な膨大な英語の資料の読解ができず、彼らはマレー語に翻訳された書籍のみに頼って研究を進めるのです。この姿勢にはだいぶ疑問を感じました。日本史をやるのに日本語の書籍を読まないということと同じことなのです。この言語問題は当然、教授言語にも影響しました。

 授業での言語は、先生によってまちまちです。マレー語と英語を混ぜて話す先生や英語を得意としないマレー人教授もいらっしゃる。私の場合、インドネシア語を勉強していたので(注2)、何とか授業にはついていけましたが、テキストやプリント類はほとんどなかったので、予習と復習で関連書籍を徹底的に読むしかありませんでした。

 マラヤ大学の場合、教授言語は学部学科によっても違い、理系の学部は英語の授業が主流のようです。試験は筆記の論文形式で、試験用紙も2言語対応。回答言語はどちらでもかまいません。修士論文も言語選択制ですが、最初に書く要旨はマレー語が必須です。そういえば、博士の口頭試験でも何語にするか、きかれました。

 マレーシアの場合は世代によっても得意とする言語が異なります。特に現在の60歳以上の方々は基本的に英語教育を受けているため、マレー人でも英語が得意という方が多いのです。若い人になると、マレー人はマレー語、華人は北京語がメインになり、逆に英語があまり得意でないという現象があります。つまり、両民族をブリッジする英語を互いにしっかりと話せないということになるのです。このため、若い人の間では民族を越えた友人がいないということも発生し、私の見る限り、マレーシアにとって非常に深刻な潜在的な問題だとみています。

 少し横道にそれましたが、つまり、多民族社会のなかの国立大学であるため、一応公用語はマレー語となっていますが、実質はマレー語も英語も使われ、学部によっては2言語ができないと難しい。私のクラスには韓国人と大陸からの中国人がいましたが、彼らはマレー語ができなかったため、授業中はぼーっと座っているだけで、クラスが終わるとどういう話だったのかを先生に聞いていたりしました。

 一方で、マレーシアの私立大学の場合は英語だけの授業が多いようです。このため、現在の日本人留学生も国立大学に入って来る人はほとんどいないようです。ただ、日本の高校から突然マレーシアの大学に入るには、英語関連の検定でクリアになったとしてもなかなか授業についていくのは難しいようです。言語の問題で中退者も結構出ているとも聞いています。

 もう一つ書き記しておくと、レポートが大量に出ます。私は最初の1学期目で張り切って13科目も取ってしまったのですが、これは大変でした。1科目あたりブック・レビューを2つと課題のレポート1つを学期最終日に提出しなければなりません。つまり、1科目あたり3つのレポートを書かなければならず、13科目も取ったので、なんとレポートは39本も英語で書かないといけないことになったのです。

 今考えてもこんな本数をよくやったなと思うのですが、当時ははりきっていたためにできたのでしょう。マレーシアの歴史研究の場合、書籍や学術論文の大半は英語です。マレー語でもあるのですが、当時はそれほど多くはありませんでした。

 レポートは英語でもマレー語でもいいのですが、英語で書く場合、マレー語の書籍を参考にすると、今度はマレー語で書かれた文章を引用したいときには、マレー語から英語に直さないといけない事態が発生します。これが結構たいへん。特に古典(日本でいえば、古事記や日本書紀でしょうか)を読むとなると、マレー語が大半で、そこからの引用が大変なのです。英語とマレー語の両方と格闘しながら、何とか苦労して修士課程を終わらせました。

 修士課程は何とか2年半で終わらせました。マラヤ大学の場合は最低在籍年数が定められ、確か当時は4学期、つまり2年はいないといけないという規定があります。その後は博士課程に行ってしまったのですが、このお話はまた別途します。修士課程の期間はなかなかいろんなことで充実した生活ができたと今も思っています。あの経験があったからこそ、博士課程でもやっていけたのかなと自負しています。


注1:学校は2学期制で、大学院は学期毎にいつでも入学可ですが、卒業式は9~10月と決まっています。
注2:インドネシア語とマレー語はまったく同じではありません。

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