note版オンライン絵画講座 閑話 趣味と本職
先日、何かの記事で宮崎駿氏が紅の豚2を製作したかったけど、完全なる趣味の域に達してしまうため製作を断念。結局主演俳優の急逝に永遠に叶わなくなった。。。
との話を読みました。
私は宮崎駿氏の作品は結構好きで、特に1900年代のものが好きなのです。
なんなら、2000年代以降のものはあまりちゃんと観てないかもしれません。
それはどうしてなのかと自分の中で少し考えたことがあります。
その当時、いや、今もそう思っていますが、きっと、氏の趣味濃度が濃い作品ほど好きなのではないか、と。物語の展開や結末のあり方もアニメーション映画には大事なことだと思いますが、それよりも趣味的趣向で描かれたと感じるものに溢れた作品の方が、どうも好きなのです。
もちろん、本人に確認するわけでも無く、そう勝手に思うだけなのですが、やはり氏の個人的なこだわりっぽいものの数が違うように思うのです。
宮崎氏の作品は2000年以降、タレントや、俳優、アイドルや芸人さんなどを起用し、しかもその誰もが素晴らしい演技で登場しているのは間違い無いのですが、それよりも、登場する機械や武器などへのこだわりの方にこそ氏の作品に対するこだわりを強く醸し出している気がするし、それによって唯一独特の世界観が形成されているように感じるのです。
私の幼少の頃に公開されたのは風の谷のナウシカと天空の城ラピュタでした。
ナウシカは劇場では観なかったのですが、ラピュタは映画館で観ました。
まだ7、8歳の世の中を何も知らない頃にあのアニメを見て、ひどく衝撃を受けた覚えがあります。
それはお話の内容では無く、数々の乗り物や機械に。
特に空賊たちが乗る昆虫の羽根のようなもののついた乗り物と、同じく空賊たちが持っていた単弾銃。いまだにあれがどんなものかわかりませんが、小型の大砲のようなもの。物語の終盤にムスカ大佐も『その大砲で」と言っているのでおそらく小型のバズーカ砲のようなものだったりとか、氏の空想に端を発しているであろう様々なものに魅了されたのを覚えております。
同時期にテレビで放送されていた、名探偵ホームズも好きで、そこに出てくるハイテクなのかローテクなのかよくわからない技術で作られた機械や乗り物の数々にも大変衝撃を受けたのを覚えております。
どちらも氏の趣味や嗜好が色濃く反映されているように感じるのです。
ラピュタやホームズ以降、家にあった、その当時は完結せず連載途中であった漫画の風の谷のナウシカを読みました。
その本は発売日もまちまちで、出来上がれば刊行されるというスタイルだったと思いますが、氏の頭の中が見えるような作りのもので、夢中に読み、繰り返しました。
話の内容は、当時子供だった私には難解でわけわかめ、だったわけですが、それでも何度も何度も読んだものです。
一つ一つの設定や、関係性もさることながら、とにかく機械や道具、衣類や人々の風俗に至るまで細部にわたってこだわって作られていました。巻頭には設定資料や用語解説もあり、その設定資料を確認し、物語を何度も読み返す。そのようにして宮崎氏の頭の中身を体感しては感銘仕切りだったわけです。
もう一つ、同時期にそれも何度も何度も読み返したのは大友克洋氏のAKIRA。これまた趣味が形になったかのような丁寧でこだわり抜いた作画に、秀逸な物語が紡がれているわけですが、やはり、ここでも、趣味が職業になっているかのような方の作品と言って間違いないのです。
そして、ふと、思います。
趣味を形にした作品が自分の好みなのだと。
趣味が行きすぎて完成し、発表されたものをもっと体感したい、と。
そう思う頃には私も大学を卒業後、戦後最大級の不況世界で身の振り方などを模索しつつ、表現者として開くべき扉を探している最中でした。
いろいろな扉を叩いては諦め、叩いては見失い、叩くことに恐怖を感じながら、それでも扉を叩き続けていく中で、さらに思い始めるのです。
趣味と言われる世界を形に起こすことこそが本職なのではないだろうか?と。
自分の外に本職の扉を見つけることは、本当にできるのか?そもそも、そんなことがあり得るのか?と。
いまだ道中半ばの私は、その答えはわかっておりません。
ですが、おそらく、趣味と言えるもの、自分のこだわりや趣向の結晶から作られた作品でしか本職の域には達しないのではなかろうか、と考えるようになりました。
そう考えると、どうか宮崎氏には趣味の延長での作品を作ってもらいたいし、いつの日かそういうものがまた観たいと心より想っているのですが、氏のようなお立場だと、そうもいかないのかもしれないと考えてしまいます。
趣味から本職、そしてニーズとの狭間
私のように売れない画家の場合、それほどニーズを意識することはないんですが、それでもやはりニーズというのがついて回るものです。
しかし、ニーズに応えているだけでは評価されないのも事実です。
ニーズというのは言うなれば一般的な目であり、作家の純然たる思想やこだわりとは一線を画すものなのです。もちろんニーズとこだわりがマッチするようなことが稀にあるかもしれませんが、恐らくは個人的思想の領域と、一般的思想の領域は次元が違うものと思われます。
作家はその狭間に身を置かざるを得ません。
その立ち居振る舞いは非常に難しく自身の精神に大きなダメージを与える場合も少なくありません。
それは作家には大小に関わらず必ずや当てはまる重要な要素だと思います。
今や、日本の大巨匠のと言われる宮崎氏には、すでに趣味から創作したものだけではニーズに対し傍若無人に振る舞うなんて事はきっとできないことだろうと思います。
しかし、名が知れ、作品が世界を駆け巡るためには必ず必要な、そして避けて通れない宿命であることも、今日では思わざるを得ない状況です。
もしも、この先、私自身の作品や名前が全国津々浦々まで轟くとしたら、前述したようなニーズを常日頃から意識し続けながら活動を続けざるを得なくなるかもしれないですが、今のところ、そんな日々が訪れる兆候もないので、まあ、好きにやってたらいいんじゃないかと楽観的にそれほど心配してもいないのは、ここだけの話ですね。
「作者」対 ニーズ
この場合、ニーズとは、ただの注文者ではなく、製作するための予算を決定、もしくはその事前段階での審議するのために用意された目としてのニーズかと思います。
大きく言えば、そのどちらも大差はないと思いますが、巻き込んだ人間やシステムの量に応じてそのニーズの大きさも変わってくると思います。
人一人の注文に応えるのでも難しいのに、組織やシステムを相手に、趣味の昇華された一つの完成形を発表するというのは、きっとほとんど無理なのかもしれないと考えている今日この頃です。
注文を突っぱねて、自らの自信作を打ち立てるような事は、映画のような場合は殊更に無理難題だと思わざるを得ません。なぜなら、一人ではできないからです。
そういう物だとある程度理解しつつも、宮崎氏や大友氏など、大巨匠と呼ばれる方々の純然たる新作を見たいと思ってしまう。
幻のようなものかもしれないけれど、いつの日か。
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