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明けましても全然おめでたくないけど「あなたにはおめでたくあってほしい」からおめでとうございます

こんな新年の挨拶をする人間は、恐らく世界中で自分だけだと思う。

でも素直な気持ち。めでたくはない。寧ろ意味は違うが「めでてほしい」くらいだ。動物大好きな人が抱きしめてくしゃくしゃするような、あれくらいの勢いで愛でられたい。とはいえ、一応新年。私がたとえおめでたくなくても、あなたにはおめでたくあってほしい。それも素直な気持ち。合体させたらこうなった――というわけだ。

カウントダウンした人もいるだろう。誰かと賑やかに過ごしている人もいるだろう。家族でTVを見ている人もいるだろう。餅地獄に嵌まっている人もいるだろう。一方で、そのムードについていけない人もいるだろう。くそがと思っている人もいるだろう。「本当の由来は知らんけど何がお『正』月だよ。正しくねえよ。お『間違え』月(おまちがえづき)だよ」と表現に八つ当たりする人もいるだろう。まあ自分なんだけど。

だからといって、お正月がナシになってくれるわけではない。こういう時だけ「平等に」訪れる。遠恋の新幹線や飛行機の出発時刻もそう。時間だけは空気を読んでくれないのがお約束だ。

「おめでたい日になんて暗い雰囲気にしてくれてんだ」と思うだろうか。「そんな新年の始め方するから1年が暗くなるんだ」と予言するだろうか。正直言って

「知った事か」

だ。自分の場所で誰かを貶すでもない言葉を好きに吐き出すのに、許可も遠慮も要るものか。めでたくねえもんは、めでたくねえんだよ。辛いもんは、辛いんだよ。これは自分の気持ちだ。誰かの気持ちを代弁しているわけではない。

全員がお祭りムードだからって、一緒に騒がなければいけないルールはない。「そういう人もいればこういう人もいる」だ。ただそれだけの事だ。嫌な事が多過ぎて「辛い」が勝っているものの、実を言うと嬉しい事が全くなかったわけでもない。嫌な事さえなければ「最高だ!」と思えるレベルで、良い事もあった。それに関しては「ありがとう」を伝えたい。伝えきれないほどに。

ええと。だからなんだ。

相変わらず「何が言いたい」という文章で、自分でも呆れる。台本のないフリートークのようなスタンスでやっているから、別にいいんだけど。それにしてもフリー過ぎるか。

ともかくだ。自分にとってはバタバタで、めでたさに浸る暇のない新年の幕開けだった。もしかすると、状況こそ違えど「調子があまり良くないまま迎えた」とか「何かを引きずったまま迎えた」とかで、あまりめでたくないと思っている人もいるかもしれない。

だから、いっそめでたくない者同士で乾杯をしよう。「同じ飲み物で」なんて堅苦しい事を言わずに。好きな物を持ってくるといい。あれ?これ展開的にクリスマスの時の記事と似ているな――いいか。構わないだろう。

マイナス同士で乾杯すれば、ここでだけはめでたくなる。プラスになる。一瞬だけでも味わおうじゃないか。

というわけで。

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「私はあなたを絶対笑わない」

これが何人力になるかは分からない。百人すら程遠いかもしれない。ただ、笑わない人が世界の中で間違いなく1人はいると、忘れないでいてくれたらいい。助けられないと生きてさえいけないくらい、見事に情けなくて頼りない存在だけど、味方でいる事くらいは出来るから。

そんな私は、今年から真面目じゃなく適当に生きるようにする。これは、決して投げやりになっているわけではない。逆。「適当」は、いい加減という意味だけじゃない。時には良い意味でも使える言葉だ。「いい加減」と「良い加減」。両極端な意味を持つこの「適当」を掲げて、2019年をやっつけようと思う。それこそ

「敵、とうっ!」

と、思いっきり蹴っ飛ばしながら。一緒に蹴っ飛ばしたくなったなら、戦隊組もう。私は赤を譲らないけど。

言葉遊びが終わったところで、そろそろグラスかコップか湯のみか何かを手に取って。ええと。最後まで読んでくれてありがとう。今年も何か少しでもいいから良い事があるといいな。お年玉がいいな。それはさておき、2019年どうぞよろしくお願いします。

乾杯。

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エトナシ サラ
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